特集:ナイチンゲールの越境 ──[建築]
日本の近代病院建築
尹 世遠
★1:光明皇后(こうみょうこうごう)
701-760。聖武天皇の皇后。父は藤原不比等、母は橘三千代で、臣下の娘で皇后になった最初の例。天皇とともに仏教を厚く信仰し、悲田院・施薬院を設置して孤児や病人の救済に努めた。
★2:小石川養生所
幕府による貧民を対象とする病院。8代将軍・吉宗が設置した目安箱へ投函された投書がきっかけとなり、1722(享保7)年に設立された。当初は薬園の薬草を試すための施設だといううわさがあり、あまり患者は来なかったが、次第に施療を望む者が増えてきた。正規の医師のほか、幕医の子弟を見習医師として施療の補助とした。さらに、住み込みで働く看病中間(ちゅうげん)、女看病人など、現在の看護師にあたる者や食事をつくる賄中間が置かれた。
★3:小川笙船(おがわ・しょうせん)
1672-1760。江戸時代の町医者で漢方医。1721(享保6)年、目安箱を通じて意見書17条を幕府当局に提出し、施薬局を設けて貧病人を救うことが採用された。小石川薬園内に養生所がつくられ、笙船がその長(肝煎)に任命された。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の主人公、赤ひげ先生のモデルとして知られる。
★4:長崎養生所
1861(文久1)年9月に長崎で開院した江戸幕府(長崎奉行管轄)の病院・医療施設。日本初の近代西洋式病院として知られる。幕府に招聘され医学教育を行ったオランダ人医師ポンペの進言により設置された。所内には医学生の教育を行う「医学所」が併設され、幕府や諸藩から派遣された医官が医学を学んだ。後に両者は「精得館」として統合され、明治期に長崎医学校と改称し、長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)の源流となった。
★5:ポンペ(ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト)
1829-1908。オランダ海軍の二等軍医。幕府が招いた最初の外国人医学教官として1855(安政2)年、長崎に来日し、長崎の海軍伝習所でオランダ医学を教えた。1862(文久2)年に帰国。門下から松本順(良順)など明治医学界の指導者を輩出した。