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リバタリアン・パターナリズム

 

 医療分野でのウェルビーイングへの関心は、公衆衛生や健康増進といった方向でしか語られていません。「みんなで一緒に健康になりましょう」と謳われる時、そこで意味されている健康というのは、禁煙だとか暇を防いで運動をするとか、毎日一万歩以上歩くといったことばかりです。こうした目標にたとえば国家や機関が旗を振ってしまうと、目標からこぼれ落ちる人たちが阻害されたり、ネガティブなレッテルを貼られてしまいます。僕はこれを非常に危ないことだと思うので、社会的に健康を考える際には排他的にならない視点が必要だと感じています。

 

チェン 『ウェルビーイングの設計論』の中で繰り返し参照されるのがリバタリアン・パターナリズムです。リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが『実践行動経済学』(日経BP社、2009年)で主張した「ナッジ理論」がベースにある概念ですが、権力の干渉から個人の自由を擁護する自由至上主義論者であるリバタリアンの考え方と、それらに制限を加えることを肯定するパターナリズムを両立させようと主張して、広く議論を引き起こしました。

 

サンスティーンは、最近の本でさらにナッジ理論を推し進めて「選択しない選択」という主張も行っています。つまり「選択肢を与えないほうがいいという選択もいっぱいあるよね」と言っているのですが、結局人間には認知限界があることを出発点にしているのです。たとえば保険の更新時に「来年度も継続するか」という選択肢で「継続しない」「今年度と同額で継続する」ではどちらをデフォルトに設定するほうが人々の自律性を損なわないか、という議論を行動経済学的に行っています。

 

僕らのような情報技術者は、ユーザーの自由を尊重して設計をすると同時に制約も考えているので、こうした理論はテクノロジーを考えるうえで大変しっくりくるものです。つまり、一人ひとりのウェルビーイングを願いつつ、介入し過ぎると気持ち悪くなってしまうジレンマと常に格闘しているわけで、医療で言えば、患者の自律性を大事にしながら治療やケアでどこまで干渉していくかというジレンマにつながるような気がします。

 

この本を読みながら、まだ幼い自分の子どもを見ていたら「はっ! ここでもリバタリアン・パターナリズムの登場だ」と思いました。子を育てる僕は父親としてついついパターナリスティックになりがちですが、自分はそこで娘に対してどうリバタリアンたり得るのかと。すべてをコントロールしたり、マネジメントしようとすれば彼女の自律性がダメになるのは十分理解できるから。結局はその両面の緊張関係が大切なのかなと感じていますが。

 

 そうした理論をお仕事でも生活でも、ご自身の生き方としてきちんと実装していこうとされているのが、チェンさんのすごいところですね。僕の場合で言うと、この谷根千あたりでやっている実践ではいかに義務感に陥らずにウェルビーイングを充実させられるかが重要で、そうした自由から得られる楽しさや生きがいが健康にもよい影響を与えることを願う一方で、医者として病気を予防的にコントロールする役割も担うべきだという視点もあるわけです。ベースとしての健康生成論的な思想を、チェンさんのようにさまざまなデザインとして組み込んでいくことで、人々が義務感に陥らずに健康やウェルビーイングに向かえるようにしていきたいですね。

 

── PART 3 につづく

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