PART 2  <   ● ●  >

 

チェン 僕の父は、もう引退しましたがフランス政府の外交官で広報担当をしていました。最近の官邸をめぐる「忖度」の話題は国際的なニュースになっていて、かつての同僚だったフランス人にこの言葉の意味を説明しようと試みましたが、1時間かけても理解してもらえなかったのです。最後は「つまり、日本人はみんなテレパシーができるんだ」という話になったそうです(笑)。

 

これに関連して、孫さんに話をしたいなと思っていたのが「共話」という概念です。僕も最近知ったばかりなのですが、水谷信子さんという言語学者が80〜90年代にいろいろな論文を書かれているのです(談話の展開とあいづちを誘導する語句:「共話」の底にあるもの, 応用言語学研究 10, 143-154, 2008-03.など)。共話とは何かというと、日本語は主語がなくても会話ができることを指しています。これを先日アメリカ人の友達に説明しようとしたら、やはり意味がわからないと言われました。

 

 英語では主語が一番大事ですから、それが無いなんてとんでもないことでしょうね。

 

チェン そう。I・YOU・HE・HERがないと会話ができません。試しにやってみたのですが案の定うまくいかなかったですね。日本人同士だとたとえば「根津の街って、家並みの高さが……」と僕が言いかけたら、孫さんがそれを受けて途中から「……低いし、空が広くていいよね」みたいな会話がごく自然な流れで成り立ちます。つまり一つの会話のフレーズを一緒に完成させるという共同作業の連鎖で話が進むのです。あるいは「ああ、今日は気持ちがいいよね」と言うときにも「自分が」とか「何が」という主語がなくても、相手がただ頷くだけで非常にスムーズなコミュニケーションが担保される。そういう構造のことを共話といいます。

 

先ほど能の稽古の話をしましたが、師匠の安田登先生が能の中でも共話があるとおっしゃったことが気になっています。たとえば藤原定家の『定家』という能は、ある内親王が藤原定家と恋に落ちて悲恋の末に死んでしまい、定家塚に怨霊として彷徨っているところへ旅の僧がやってくるお話です。僧がその幽霊の話をいろいろと聞いてあげる、ちょっとケア的な話の構造なのですが、最後のパートで、一方が「お経を唱えたことによって我々の魂は解放され」といった意味のことを言い始めると、もう一方がその言葉を継いですべてを言い終え、最後に地謡方(じうたいがた)の人たちが風景の描写をするという部分が、まさに共話になっています。

 

また、安田さんは大正時代の「朧月夜」という唱歌の歌詞には感情描写が一切ないのに、日本人はこの曲を歌って泣くのだとおっしゃいました。つまりそこには「風景に溶け込む人間」という構造があると示唆されているわけです。フランス語を話しているときにはそういう感覚がないから、僕にはその状態の特殊さがすごくよくわかります。

 

英語やフランス語では、個として屹立した人同士が「対話」ができたときによい会話になる。つまり互いにウィンとウィン。どれだけ自分からギブができ相手からテイクできたのか、情報価値量の比較が行われるというある種の貿易なのです。みんなよく「ウィン・ウィン」って言葉を使いますが、僕はあまり日本的な発想ではないなと思います。

 

一方で、友達とぼけーっと散歩したりお酒飲んだりしながら、日本語で終わりのない会話をしているときの気持ちよさというのは、自己という檻から解放されるような感覚があります。つまり共話というのは、会話をしているその場に共同人格のようなものが生まれることを後押ししてくれるコミュニケーション・システムなのではないか。そのことによって、時として耐え難い重さを持った自己から一時的にでも解放される。それがある種のウェルビーイングの因子なのではないかと……。これはもう超仮説なのですが(笑)。

 

 

 

 日本的なコミュニケーションは二項関係ではなく三項関係で成り立っているという話を、立命館大学のやまだようこ氏が言っています。二項関係では二人がそのまま向き合いますが、三項関係では横に並んで互いの間に何かふわっとした自然的なものを介して通じ合う。縁側に座って庭の風景を一緒に見ながら話すイメージですよね。たとえば小津安二郎の映画を観ると、そういう形で会話をしているシーンがとても多いことに気づきます。この「第三項」がいったい何かというのは、すごく神秘的で面白いですね。

 

チェン いま風景をともに眺めるとおっしゃったのに触発されたのですが、それは互いに共有するものを一緒に生成するような感覚なのかもしれません。「対話」だとお互いに自分が持っていた荷物を「よいしょ」と開陳するようなイメージで、たとえばこの対談も一応そういう形式です。だけど共話のほうは最初から目的やゴールが定まっておらず、その場で一緒に会話をつくり上げていく営みではないでしょうか。

 

 面白いですね。これは論理的に説明できそうだし、英語にするとどのように名付けられるでしょう。

 

チェン 言語学者の友人たちに「共話って訳されていないの?」って聞いてみたのですが、co-constructive dialogueとか、熟れてないものしかなく、いい訳語がまだつくられていないようですね。でも僕が思うのは、共話は日本人だけが可能というわけではなく、欧米人もきっと別のかたちでそういう会話をしているはずです。おそらく日本語というツールに共話をうまく後押しできる性質があるのでしょう。こうした価値観は決して日本人にしかわからないものではない、と僕は信じています。

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