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「共話」とはなにか

 

チェン そういえば今回、事前にいただいた資料がすごく勉強になりました。とくにSOCのことが気になりましたが、あれは何の略ですか?

 

 センス・オブ・コヒーレンス(sense of coherence:首尾一貫感覚)ですね。

 

チェン コンシスタンシー(consistency:一貫性)ではなく、コヒーレンス(coherence:整合性)ですか。

 

 そうです。でも最近はレジリエンス(resilience)のほうが多く使われているようです。どちらもかなり近い概念ですが、SOCはアーロン・アントノフスキーというユダヤ系の医療社会学者が概念化をしたもので、「ストレス対処能力」とか「一貫性感覚」といったものを指します。

 

レジリエンスやSOCなど、健康は病的状態の欠如ではなく、健康因によって支えられているという考え(健康生成論)は非常に興味深くて、私の現在の研究関心に近いです。また、個人のレジリエンスのみならず、コミュニティのレジリエンスということも注目されたりしています。そのようなコミュニティでは自殺率が低いなどの特徴があるようです(岡檀さんの徳島県旧海部町の研究)。

 

チェン いまコヒーレンスという言葉を聞いて、レジリエンスよりもSOCのほうが最近よく考えている「自律性」という概念に近い気がしました。先月『ウェルビーイングの設計論』の著者をオーストラリアに訪ねた際、いろんな研究現場を訪問させてもらったのですが、彼らはいまオートノミー(autonomy:自主性、自律性)を大変重視していることがわかりました。オートノミーはPERMA理論にない概念ですが、直感的にそれがウェルビーイングを支える大事な要素だということがすごくよくわかります。たとえば著者のラファエル・A・カルヴォ先生は、医師と患者の診察のようすをビデオに録り、ソフトウェアで解析させて医師が患者のオートノミーを阻害していないかどうかを検出するシステムを研究されています。

 

オートノミーを大事にする背景に西洋的な個人主義がある一方で、日本人的な集団主義の最も悪い方向性として全体主義がありますよね。たとえば軍国主義時代の日本のような社会では、自律性はないがしろにされ思想も行動もクローン状態になってしまう。日本的な社会感覚をそうした全体主義に走らせないためには、内部にうまく自律性を挿入しなければならないという思いが、漠然とあります。

 

 

 

 医療の世界でも患者の自律性が注目されるようになり、医師=主、患者=従のようなパターナリスティックな関係がシェアード・ディシジョン・メイキング(shared decision making:協働的意思決定)を前提とするように変わってきています。でもそこでのオートノミーが少し間違った方向で扱われているきらいがあって、たとえば手術の前にどれだけ長い時間をかけて病気や治療の説明をしても、患者がどう判断し治療法を選択するかについてのサポートがそこにはありません。「とりあえず説明して、選択肢を示せばいい」という姿勢なのです。インフォームド・コンセントが医療者の免責のようになってしまっている。

 

チェン 企業でのコンプライアンスみたいな話になっているということですね。

 

 そうですね。患者さん側がもつ情報は限られており、医療者との間に非対称性があることは否めないので、そこを考慮したデザインで自律を支援する必要があります。たとえば僕の友人である聖路加国際大学の大坂和歌子さんは、患者さん個々のさまざまな闘病経験(=物語)というものは、個別性が高いがゆえに、それを聴くことで意思決定支援になるのではないかという研究をしています。

 

意思決定支援の場面では、ふつうなら患者に対し統計的な情報を示します。しかし生存率、副作用の発現率、薬剤の有効性といった客観的な数字の情報ばかり与えられても、やはり意思決定するのは難しい。それよりも個々人の経験や気持ち、価値観などが含まれたナラティブに着目するほうがいいのではないかという発想です。

 

チェン 情報技術の世界でもユーザーとデベロッパーの間には非常に大きな非対称性があります。たとえばフェイスブックは世界中で毎月20億人(!)のユーザーが使っているサービスですが、過去にプライバシーポリシーを勝手に変更したことでユーザーの怒りを買い、集団訴訟を起こされたりしています。まさにインフォームド・コンセント抜きに個人情報の扱いを変えてしまったわけです。

 

ネット上のさまざまなサービスやアプリを初めて使う時に、必ず利用規約に同意しなければ先に進めないようになってますよね。しかもその内容は、普通の人が読んでも100%の理解ができない法律文書であるにもかかわらず、同意を保たせる仕組みで、これをシュリンクラップ契約(Shrink-wrap contract)と言います。法的にはグレーですが、一応同意したと見なすしかない状況にあります。これに対し、一部の法律家やデザイナーが協働して、できるだけ簡潔に理解できる文書を用意し、より詳しく知りたい人だけが長い利用規約を読むようにしようという動きもあります。

 

ほかには、こうしたサービスやアプリごとに蓄積された生体データなどの個人情報に対し、ポータビリティ(移動、持ち出し)を確保しようという話もあります。あるサービスの個人データを自分でいつでも自由にダウンロードし、自分で管理したり他のサービスで活用できるようにするという考えです。情報面のオートノミーに関して自身が権限を持つということですね。しかし現状は自身の情報がインターネット上のあちこちに分散していて、どこにあるかもわからない。そもそもSOCが存在できない状態なのです。

 

 日本人の場合は、自分と家族やコミュニティとの境界が曖昧というか、アイデンティティが共同体に帰属する傾向があるため、自分の情報や考えは完全に自身の所有物であるとは言えない気がして、そこで自律性をどう共存させるかという問題がありそうです。たとえば患者さんは自分よりも家族の意志のほうを上位に置きがちで、本心では終末期を家で迎えたいのに、家族の負担を推し量り「自分はずっと病院がいい」と言ったりします。

 

チェン それは結構、切実な話です。家族のほうも本人の希望を叶えられたのかどうか、本当のことがわからないまま残されてしまうことになってしまいますよね。

 

 そういう忖度(そんたく)を、言葉で伝えずに振る舞いや行動だけで済ませたりもします。

 

チェン 阿吽の呼吸的に。

 

 そうですね。親しい家族同士であるほど、言葉で伝えずにそっとしておいたりするから。

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