連 載
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── 古今の哲学者のはなし
執筆:瀧本 往人
第10回:[現代哲学5]
他者(老いと死)と向かい合う──ボーヴォワールの生き方
前回はニーチェの哲学を「病気」とのつながりから見つめ直してみました。今回は、第二次世界大戦後に活躍したボーヴォワールの生き方、考え方、他者との向き合い方、そのなかでも「老い」と「死」に焦点を当てます。そしてもちろん、生涯のパートナーであったサルトルにも触れます。やや間接的ではありますが、この2人の活動の仕方や考え方を、現在の医療現場、看護の現場で起こっていることと関係づけてお読みいただければと思います。
サルトルとともに生きた哲学者
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、ハンナ・アレント、シモーヌ・ヴェイユと並んで、女性の哲学者としてもっともよく話題に上る人物の一人です。しかし、一般的には、ボーヴォワールとサルトル、2人のことを取り上げようとするなら、まずは、サルトルが主役となり、ボーヴォワールを脇役とすることでしょう。しかしここでは、ボーヴォワールを主役に話を進めようと思います。少なくとも「サルトル=ボーヴォワール」として、改めてサルトルや実存主義のことを掴み直してみます。
とはいえ、サルトルはともかくボーヴォワールは「作家」とみなされることが多く、彼女を正面から「哲学者」ととらえることに多少なりとも違和感を抱く人が少なからずいることでしょう。ただ、私がここで行いたいことは、既存の「哲学者」の枠に2人を当てはめることではありません。彼女(たち)は、新たな時代の「哲学」と「哲学者」の像を自ら生み出していったのであり、その点に大きな意味があります。
確かにボーヴォワール自身は、自分のことを「哲学者」だと強調することはありませんでした。幼少の頃から作家を志し、小説「招かれた女」(1943年)でデビューし、遺された作品の大半が小説や回想録の形式をとっています。しかも、彼女の思想の大半はサルトルと重なるところが多く(場合によっては、影響を受けたところが多いとされ)、あえてボーヴォワールを持ち出す必要があるのかと怪訝に思う人もいます。彼女はあくまでサルトルの生涯に寄り添っていた存在にすぎず、わざわざ取り上げるまでもない。そうとらえられることもあります。
しかし、それは「哲学(者)」というものを狭く見すぎています。これまでも「哲学者」の像は何度となく変化してきましたし、この連載でもそのことを指摘してきました。思い出してください。「始祖」にあたるソクラテスがそうであったように、哲学は常に「真理」と「自由」を他者と一緒に追求するとともに、飽くことなく「批判」を続けてきたということを。そのため、その解釈や問いかけは一様ではありません。また、さらに重要なのは語られた内容だけでなく、生き方であり、かつ(書かれたものを含めた)発言の仕方です。そもそもサルトルの思想の主要部分はボーヴォワールに拠っていた、という研究さえ現れています。
何よりもボーヴォワールは、「男」を中心として組み立てられてきた社会や哲学に、「女」という問い、この根本的で抜き差しならない「問い」を投げかけました。当時これは、いま思う以上に大きな出来事でした。世の中は「女」をどうとらえてきたのか。これまで「男」を「人」と同一視してきて、「女」はそれとは別物とみなされてきたのではないか。そうした「女」というものは「男」がつくりあげたものにすぎないのではないか。そう突きつけたのです。
哲学とは常に、既存の考え方に疑いの目を向け、新たな問いを投げかけることにその存在理由があります。ボーヴォワールはそれまでの「女」のありかた、「男」のありかたに根本から疑問を投げかけ、これから生きる私たちのありかたの可能性を切り拓いたという意味で、まさしく20世紀を生きた「哲学者」でした。
またもう一点は、哲学を一人の人物による個人的な営みとせずに、チーム(カップル)を1つのまとまりとしてとらえる可能性を開いたことです。これもまたソクラテスに引き戻されますが、やはり哲学の原点は「対話」にあるということに結びつきます。「ソクラテス」の「対話」が、「プラトン」によって記録されて初めて成立していることを考えれば、私たちが「サルトル」に属しているとみなしている思想についても、大半は「ボーヴォワールとサルトル」の合作としてとらえることに意味があるはずです。
言うまでもなく、サルトルにとっての対話のベストパートナーはボーヴォワールでした。そして当然、ボーヴォワールにとっての対話の相手はサルトルでした。そのことから、それぞれの著作は、2人の共同作業の産物ととらえてもよいのではないでしょうか。2人をひとまとまりにして「哲学者」ととらえることこそ、20世紀の哲学者像にふさわしいように思えます。
もちろん、ボーヴォワールが注目されるに至ったきっかけは、サルトルという類まれな才気ある哲学者とともに生き、ともに語り、ともに実践を重ねてきたことにあることは否めません。しかし、2人は「契約結婚」という独自の関係性を試み、以後、紆余曲折はあったにせよ最期まで深いつながり、関わり合いを持ち続けました。しかも綺麗ごとばかりでなく、スキャンダラスな話題にも欠きません。
しかし、そうした2人の姿そのものが、新たな「哲学者」のあり方、新たな男女関係のあり方、新たな人間関係のあり方を示しているのではないでしょうか。矛盾する言い方ですが、「女」であるボーヴォワールがそれまでの「女」という枠からはみ出て、「サルトル=ボーヴォワール」として生きたこと、そのことが彼女を「哲学者」と呼ぶ最大の理由と言えるでしょう。
それは、ビートルズがジョンとポールの連名による作品を中心に成立していたのと同じくらいに重要な意味を持ちます。互いに刺激し合い、互いに支え合い、互いに嫉妬し合いながら生きた、ということです。ちなみにビートルズは、サルトルとボーヴォワールが日本を訪れるよりも3カ月ほど前に東京で公演を行いました。当時の日本の若者たち(今はもうお年寄りになっていますが)には、この「バンド」と「デュオ」が時代のシンボルとして光り輝いて見えたはずです。
第二次世界大戦後の時代と実存主義
ボーヴォワールとサルトルは、特に、第二次世界大戦後の世界をどう生きるべきか、その指針を実践活動とともに示し続けました。一般的に2人の哲学は、権威、権力、体制、伝統をそのまま受け入れることに抵抗を示し、世の中のあらゆる既存の秩序に疑問を投げかけるものとして理解されました。アカデミズムさえもその意味では「既存の秩序」であるため、その内部で議論するのではなく、世界に向けて一般市民に問いを投げかけ、対話を行いました。
ボーヴォワールとサルトルは、世界目線で対話や活動を行うことを当たり前とし、内側と外側という対立項よりも、全世界、全人類と自分(個人)との関係を常に意識していました。さらに雑誌の刊行や演劇活動もそうですが、新聞やラジオといったマスメディアを通じ、世界中にリアルタイムで伝わったことが、20世紀の哲学者として新しいと言えます。そのため、サルトルの次の時代を担った哲学者ミシェル・フーコーは、彼らのことを最初で最後の「普遍的」知識人と呼びました。
ところでボーヴォワールは、パリの中産階級に生まれました。「シモーヌ・ド・ボーヴォワール」の「ド」は貴族の称号ですが、父は弁護士、祖父は公務員、曾祖父は税務検査官といったように、少なくとも三代前から何らかの仕事に就いて生計を立てていることから、上流階級と言えるほど由緒ある家柄ではなかった、と本人は語っています。
当時の風潮として、中流階級の女性は高等教育を受けるべきではないという考えがあったようですが、彼女はそれを押し切り大学で学びます。その頃サルトルと出会うのですが、最初はまったく関心がなかったとボーヴォワールは後に回想しています。彼女は最初、哲学者メルロ=ポンティや文化人類学者のレヴィ=ストロースのような、良識のある穏やかな人物と親交を重ねていました。しかし、次第にサルトルのグループとつながりができ、彼の存在や発言に興味を惹かれてゆきます。
ただし、それでも最初は警戒して距離をとり続けます。一度など、自分の代わりに妹をデートに行かせ、サルトルの様子を伺ったほどです。しかし21歳のとき、哲学の教授資格試験に主席のサルトルに続いて次席で合格してからは、彼との距離が一気に縮まります。その後サルトルのほうから「契約結婚」が提案され、ボーヴォワールは受託します(最初の契約はあくまでも2年間の期間限定でした)。
彼らの言う「契約結婚」とは、自分たちの愛は「必然」的なものであるから、わざわざ何かに「誓う」必要はないということです。正直に言えば、こうした「結婚」はサルトルにとって都合のいいもので、いろいろと打算や思惑が含まれていたことでしょう。しかしボーヴォワールはこれを受け入れ、少なくとも2人は、その後紆余曲折はあったにせよ、生涯をともにすることになります。2人の契約結婚が、ある種の「理想」のかたちにまで高められたのは、どう考えてもボーヴォワールの尽力があってのことです。
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