デリダ Jacques Derrida

1930 - 2004 フランス

 

文学少年だったデリダは大学で哲学を学び、当時フランスで十分に知られていなかったフッサール現象学を足掛かりにその道に進む一方で、文芸批評にもかなり力を注ぐ。言ってみれば文学作品を読み解くように哲学書を分解・再構築するとともに、一人ひとりの哲学者の生き様や考え方にも深く踏み入ってきた。1983年とその翌年に来日し、彼から指導を受けたり講義やセミナーの聴講をした日本人は多い。2003年にすい臓がんが発見され、翌年に亡くなる。

「歓待」とは何でしょうか。それは「一晩泊めてほしい」と言われたら、どんな相手であっても、いかなるときでも、いかなる場合でも他者を迎え入れる(すなわち手厚くもてなす)べきであるといった、他者関係のありかたのことです。しかも多くの場合、歴史的に(民俗学的に)歓待する他者像との関係から「異人(歓待)」論として述べられています。つまり他の地域、他の文化、他の言語とかかわりを持つ「他者」との向かい合い方として論じられてきたという経緯があります。

 

デリダは、1996年に行われた連続講演で「歓待」についてかなり掘り下げた議論を行いました。この内容の一部が後に『歓待について』(1997年)として刊行されました。ここでデリダが問題にしているのは、フランスにおける移民や難民への「応答=責任」と、インターネット時代における国家による監視や盗聴といった現実です。ちなみに私がデリダの歓待論に着目したのは、2001年に米国で起こった「同時多発テロ」の衝撃に対するある種の「回答」としてです。この出来事は私に“全く相容れない他者との共存をどう目指すべきなのか”という問いを突き付けました。これに対してデリダは、無条件の歓待というものを普遍的な掟としてとらえることから始めるべきではないかと主張しているのだ、と考えてみたのです。

 

こうした「歓待」論をデリダが展開する際その端緒に置いたのは、エミール・バンヴェニストによる語源研究(『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』1969年)です。バンヴェニストは「ホスピタリティ」を印欧語の重要な「制度語彙」の一つとして取り上げ、その語義における「主=客」「客=敵」の二重性を強調しました。この部分の説明だけでもかなりややこしいのですが、簡単にまとめてしまうと、「歓待」の裏には「虐待」があり、「虐待」の裏には「歓待」がある、ということです。つまり「歓待」は命がけであり、もてなす側ももてなされる側も、いずれかが「死」に至るおそれがあります。その中で自分のほうから相手を全面的に受け入れるという意思を伝えるための「技法」、それが「歓待」であると言うことができます。そのため、これを「お・も・て・な・し」のように表現してしまうと、妙に明るく楽しい側面だけが強調されてしまいます。「歓待」とは、とても真剣な、抜き差しならない「試み」なのです。

 

言葉として「ホスピタリティ」は「ホスピタル(病院「ホスピス(終末医療施設「ホスト(主人「ホステス(女主人「ホテル(宿(ユースホステル(簡易宿泊所といった語とつながりがあるのは当然として、さらには「ホスティリティ(敵対心)「ホスタイル(敵意)とも近しい関係にあります。つまり他者を受け入れる、もてなす、という意味合いがあるだけでなく、敵対、敵視、虐待といった裏腹な意味ともつながっているのです。前述したように、デリダはこうした二重性にいつも着目し「差延」を確かめ、そのうえで既存の理解を一度解体したうえで、以前とは異なる形で問い直す「脱構築」を実行します。

 

 Column 3脱構築と薬 デリダが「脱構築」について語っている中で、最もわかりやすくかつ看護職の方々にもなじみやすいのは「薬」の例でしょう。デリダはプラトンが遺したソクラテスの対話編『パイドロス』に登場する「パルマコン」(薬=毒)に注目します。「パルマコン」は「ファーマシー」(薬局)などの語源にあたります。 薬と毒が近しい関係にあることはみなさんもよくご存じのことでしょう。ソクラテスは対話を重んじた人ですが、同時に、文字に書き残すことに対しては懐疑的でした。この場合、ライブとしての対話は「薬」ですが、文字に残すと「毒」ともなってしまう。もちろん文字にはソクラテスの思想をこうして今の私たちにも生々しく想起させてくれるという利点もありますが、文字に固定されることによって一義的にしかその内容を解釈できなくなってしまうという難点もあります。 デリダには一つの言葉、一つの考え方が常に一義的ではなく、相反する意味合いの「せめぎあい」を演じているというとらえ方があり、こうした二重性、両義性といった「差延」を見いだしていく営みが「脱構築」と呼ばれています。

 

デリダの考察によれば、「歓待」とはまず、主人(ホスト)と客人(ゲスト)という関係性が前提となっており、そのうえで主人が客人を歓待する、という構図を持っています。デリダは、主人というものが成立したのは歓待を通してである、ととらえます。つまり、客を歓待して初めて主人が成立する、主人として命名されると考えるのです。歓待を行うことによって、自分が主人であることを認識(再確認)できるのです。主人のアイデンティティは歓待を通じて形成され、歓待することは主人の証となります。とは言っても、客人を招き入れるのはそう簡単なことではありません。

 

それは、客というものが敵と同じ意味合いを持つからです。歓待する客とは、本来自分と近しくない人間です。全く素性の知れない、いや、むしろ最も受け入れがたいような身なりや佇まいをした人物かもしれません。そうした人物を無差別に招き入れることにこそ、歓待の真髄があります。これを「無条件の歓待」と呼びます。看護の実践もまさに、相手を選ぶことなく、病気や怪我で困っている人であれば誰でも招き入れることが基本でしょう。こうした行為が「仕事」として成立していること自体が、ある意味では不思議なことです。大方の仕事(商取引)は、需要と供給との相互利害関係によって成立していますが、看護をはじめとしたホスピタリティにかかわる仕事は、どのような相手でも受け入れるところから出発しているという意味では、簡単に「仕事」と割り切れるものではないと思います。それだけ大変な営み、本質的な「勤め」であると改めて考えさせられます。

 

歴史的にみて、こうした歓待の考え方は西洋文明の2つの源流であるヘレニズムにもヘブライズムにも共通して存在してきたものだとデリダは考えます。場合によっては、人類全体にとって普遍的なのかもしれないと思って議論を進めています。歓待は非常に古い時代から一定の意味合いを持ち続けてきたと考えるのです。

 

一番わかりやすい「歓待」の姿は、旅行者を我が家に泊める、ということでしょう。特に「聖地巡礼」を行う場合です。例えば、キリスト教徒の旅人がイスラム教徒の家に泊めてもらうということが、たびたび起こっていました。いわゆる「一宿一飯の恩」というものとつながっていますが、日本語の場合はむしろ泊めてもらった他者からの視点として「恩」を強調するのに対して、西洋の歓待文化については、泊める側の視点が強く全面に出ている、といった違いがあります。

 

デリダは、異人や旅人への宿や食事を提供する習慣が歴史的かつ地理的に広範囲に見られることを根拠にして、「歓待」を伝統的な他者関係または人類にとっての普遍的な他者関係、人類にとってのある種の「掟」とみなすばかりか「現代」社会における他者関係のありようを見直すうえでの手がかかりにもなりうる、と考えるのです。

 

 Column 4顔写真を非公開にしていたデリダ 過去の人物ならいざしらず、戦後に活躍した哲学者はみな顔が知られており、YouTubeなどで動いていたり発言したりする姿を見ることもできます。デリダもまた然りです。ただしデリダは1970年代頃まで、公式には自分の顔写真を公開していませんでした。その代わりに雑誌や新聞には似顔絵が掲載されていたのです。 たとえば日本では、1982年の『現代思想』の臨時増刊号「デリダ読本」の表紙は山藤章二氏によるイラストで、なんとデリダがあやとりをしています。素顔を見せないことによって、いろいろな噂が立てられましたが、ある事件をきっかけにして彼の顔は世界的に知られることとなります。チェコの反体制派の人たちとの会合に参加した帰りに空港で不当逮捕されてしまったのです。フランス側は猛烈に反発し、フーコーをはじめとした知識人も抗議を行いました。解放されフランスに帰国したデリダの顔は新聞やテレビ、雑誌などに取り上げられ、誰もが知ることとなりました。その後は普通に顔写真があちこちで使われるようになります。 フーコーもまた、自分が何者であるのかと尋ねられるのを拒んだり、覆面の哲学者でありたいという発言を行ったりしていますが、フーコーとデリダがともに敬愛するモーリス・ブランショが「顔のない作家」と呼ばれ顔写真を非公開にしていたことに影響を受けたのかもしれません。

 

 

カントの歓待論

 

歓待論を検討するなかで、デリダはカントの「永遠平和のために(1795)という論考を見いだします。ここには「世界市民法は普遍的な歓待の条件に制限されなければならない(第三確定条項)という文章が含まれています。平和的に振る舞う他国の人間は無条件に自国に受け入れるべきであり、もしも国外に退去させて身に危険が及ぶのであれば、自国でかくまわねばならないという内容です。これは国家もしくは法の次元で主張された歓待と言えます。

 

ここでカントは、とりわけ西洋社会における商業行為が、他国特に第三世界に対して「征服」を行ってきたことを非難しています。彼らは歓待の掟をいいことに「訪問」の権利を乱用したからです。この時代にしては珍しくカントは自国や西洋社会を特別視せずに、万人すなわち世界市民全般に適用できる議論を行おうとしていることがわかります。

 

また、主人の立場(すなわち客人をもてなす側)からではなく、もてなされる側(すなわち客人の立場)から歓待について問いかけているところにも、カントの議論の特徴があります。これに対してデリダは、カントの歓待についての議論は終始「訪ねる側」の権利の普遍性に限定しており、結果として「訪ねられる側」の権利、すなわち「主人が客人を歓待する」ことの権利を注視していない、と批判的にとらえます。歓待とは何よりも、訪ねられる側すなわち主人の権利ではないのか、というのがデリダの主張なのです。

 

なお、カントは別の論考でも「歓待」とかかわる議論を行っています(「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利に関して」1797年)。ここで主張されていることは「たとえどんな場合でも嘘をついてはならない」ということです。つまりカントの倫理学において、嘘をついてはいけないということは、無条件に人間が守るべき掟、すなわち「定言命法」なのです。

 

例えば、自分の家に「犯罪者」をかくまっており(これも歓待の一種とみなすことができるはずです)、ある日警察が「ここに犯罪者がいるというのは本当か」と問われた場合、決して嘘をついてはならない、すなわち「いる」と答えねばならない、と理解されるものです。一般的には「いる」と答えるとかくまっている人物に対する不義理を働くと思ってしまいますが、カントは「真実を語る」ことと「犯罪者が捕まる」ことの間には直接的な因果関係がない、だから「いる」と答えるのだとみなします。また、ここでは先ほどとは異なり、カントは「主人」の側から歓待をとらえていることにも注意しましょう。

 

もちろんカントは、嘘をつくくらいなら客人を死なせる危険を冒さざるをえない、という状況に自らを追い込んだほうがよいと考えているわけではありません。しかし少なくとも主人による歓待の義務が軽んじられ、放棄されており、他方で真理に従属する義務のほうが優先されていると、デリダは力んで訴えます。

 

なぜカントは「歓待する主人」の義務として、客人を守ることを優先しなかったのでしょうか。「自らの命を賭して客人の生命を守り抜く」ことは、何故「嘘をつくかつかないか」という義務より下位に来るのでしょうか。2つの義務、2つの掟が反目するとき、どのように処したらよいのでしょうか。いずれか一方を優先するしかないのでしょうか。その場合、いずれを選択すべきなのでしょうか。そうでなければ、いずれをも優先しないのか、いずれをも優先するということがありうるのでしょうか。デリダはこうした「問い」を私たちに突き付けますが、もちろんここにただ一つの「答え」があるわけではありません。

 

はっきりしているのは、デリダが論じようとした歓待とは、カントが議論しているような「美徳」や崇高な理念といった類のものでは決してないし、人はみな善意を持っているから相手を歓待するという理想状態の説明でもない、ということです。むしろ、それぞれの社会や共同体が長年をかけて生み出していった「知恵」に近いものであり、他者への恐怖心が避けがたく歓待を生み出した、と言ってもよいでしょう。

 

いずれの共同体においても、たえず異人である他者は自分たちの生活共同体を脅かす存在でした。しかし同時に新たな可能性、新たな技術や文物、新たな「血」をもたらす者でもありました。異人には必ずこうした両義的な意味合いがあり、客人とはすなわちそういうものなのです。日本の昔話にもこのことを象徴する作品が多々あります。例えば「こぶとりじいさん」もその一つです。ご存知のとおり、ほとんど同じような振る舞いをしたとしても、鬼は福や宝をもたらすときもあれば災厄をもたらす場合もあります。言ってみれば矛盾や気まぐれ、偶然、適当、そういった要素を含みこんでいるのが歓待における他者関係なのです。「法」や「規則」にはなりえない、というよりも法や規則や制度と異なり、その都度他者と状況とによって意味合いを決めていかざるをえないような、そうした微妙なやりとりこそ、歓待なのではないでしょうか。

 

1 2 3

 

──────────────────────自己紹介イントロダクションバックナンバー──────────────────────

 

教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

Copyright (C) Japanese Nursing Association Publishing Company all right reserved.