バイオパワーと看護学

 

「医療化」と似たような論点はその後のフーコーの仕事においても断続的に取り上げられていきます。たとえば『監獄の誕生』(1975年)は、直接的には刑罰としての身体刑から監禁刑への社会的ニーズの変化に焦点が当てられ、私たちの社会がどうして監獄という制度や空間、システムを生産的に活用し維持してきたのか、さらにはその制度実践が兵舎や学校、病院、作業場などにも適用されていったことについて歴史的な分析が行われます。

 

これは、言ってみれば犯罪を行った人間の身体を直接的に痛めつけて懲罰を与えることに価値を置いた社会から、そうではない社会への移行する要となったものとして監獄を見ているということです。この社会は、まず正常ではないものを基本的に排除し、特定の場所に幽閉し、そのうえで訓育=調教を行い、正常化(ノーマライゼーション)を果たすというメカニズムを受け入れているというのがフーコーのとらえ方です。これは「管理はダメ」といったような、単純な管理社会批判ではありません。大事なのは実際に自分がそうした「管理」から自由になるための思考の仕方と実践の仕方を発見することにあるのです。

 

この場合、犯罪者や逸脱者へのまなざしは、一人ひとりの身体や生命を「個人化=個別化」するという点に特徴があります。しかし他方で、こうしたメカニズムと並行して「全体化」が果たされたのだと、さらにその後に刊行された『性の歴史 第1巻』(1976年)では説明されています。国が行う人口動態調査や保健管理、さらにはナチズムによるユダヤ人の大量虐殺などを参照例として、単に個別的な身体や生命につぶさに力を行使するだけでなく、国民や民族など全体性に及ぶ力を特にフーコーは「バイオパワー」と呼んで強調しました。つまり現代において、生命への知を伴った力の行使は「全体的かつ個別的に」行われた、とまとめられます。

 

その意味では、これまでの看護学はあくまでも「個別化」の次元に及ぶ力を行使していたと言えます。医師が医学というすでに権威化された知の体系の代表者として患者と対峙するのと比べると、看護師は一人ひとりの患者に寄り添ってそのニーズをつかみ、サービス(本来的な意味での)を行うのが基本だと思います。しかし今、看護学のなかでも看護実践が患者や他の医療従事者にもたらしている影響(場合によっては負の影響)を重く見ている研究者は少なからずいます。

 

これは今後も議論されるべき問題であり、今ここで結論めいたことを言うのは差し控えますが、介護や福祉の現場も含めて看護実践とその知はかつてよりも明らかに、以前より大きな力を持ち始めていると考えられます。当然ながらこれは、社会における看護師の立場の向上やその必要性が高まっているというポジティブな側面もありますが、とりわけ患者にもたらす影響という意味では、十分に反省的にとらえてしかるべき課題も内包されているように思われます。

 

 

力の行使が見えにくい「バイオポリティクス」

 

一般的には「バイオポリティクス」論としてまとめられているフーコーの最晩年の仕事も、医療や看護の領域と無関係ではありません。バイオポリティクスとは、前述した監獄システムや知のように「矯正=調教」という、はっきりとした管理化(これを「規律=訓育型権力」と呼んでいます)とは大きく異なり、あまり明瞭なものではありません。しかし、直接的かつ物理的に身体に影響を及ぼし、その結果、人々の行動や考え方を規定してしまいます。そのため、哲学者の東浩紀や社会学者の大澤真幸はこうした作用を「環境管理型権力」と呼んでいます。よく例として出されるのは、客の回転(店の出入り)をよくするために、意図的に居心地の悪い座席を使っているファストフード店です。「規律=訓育型権力」は一望監視装置などを使い、あからさまに自分が「知/権力」の対象となっていることを自覚できますが、環境管理型権力は、ファストフード店の座席を「そういうものだ」として客は受け入れています。

 

これは、直接的には医療(従事者)に向けられたものではありませんが、冷静に分析してみれば、たとえば多くの病人が待たされている待合室の居心地の悪さとか、医者の立派な椅子に対する患者の安っぽい椅子との対比など、思わぬところに現れている「本音」に迫るヒントが数多く隠されているという言い方ができそうです。病院を一度、そういう目で見て確認してみてほしいと思います。

 

なおフーコーは、1984年、自分のアパルトマンで血を流して倒れていたところを恋人に発見され、その後集中治療室に入り、仕事半ばで亡くなりました。かつて書き残した遺書には「不具よりは死を」と書かれていたと言われています。あくまでも自分の意志がはっきりしていることが重要であり、延命だけを目的とした医療処置は拒んだようです。当時は死因があいまいでしたが、後には修正されAIDSが原因であったとされています。

 

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Column 4:看護研究におけるフーコーの影響

国内ではフーコーの遺した仕事を看護の領域にひきつけて本格的に論じている人は、それほど多くないはずです。しかし一方、英語で読める看護理論や看護教育に関するペーパーは大量に生産されています。たとえば、看護実践における「知─権力」について論じていたり、患者の文化的多様性に対応できる看護実践を目指した内容であったり、看護師が患者や医者と語るスタイル(=ディスクール)とその影響の分析、身体やまなざし、調教、一望監視装置などを扱っています。これは一方で、看護実践(特にケアという側面)が医療実践における医師の仕事につぐ大きな社会的関心、政治的な出来事となっていること、看護によって得られた(もしくは生み出された)知が真理の領域に大きく影響を及ぼしていること、すでに看護師が医者に従属するものではなく、専門家として認識され(はじめ)ていることと関連があるでしょう。繰り返しますが、これは両面性があり、社会的地位が向上したとも言えるのですが、同時に、社会において生涯を通じて権力を行使する立場にもなっているということが指摘されています。インターネットでもかなりの数の論文を読むことができますので、機会があれば是非チェックしてみてください(「Foucault Nursing」などのキーワードで検索)。

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他者を看護する〈私〉への配慮と「自由の実践」

 

この連載のタイトルである「魂の世話」は、もちろんソクラテスに由来していますが、実は同時に、フーコーとも深いかかわりがあります。彼はソクラテスからこの言葉を英語やフランス語に置き換えて使用する際に「自己のテクノロジー」「自己の陶冶」「自己への関心(専心)」「自己への配慮(ケア)」といったような表現を用いました。ちなみに遺作となった「性の歴史」(第3巻)(1984年)のタイトルにも「自己への配慮」という言葉が用いられています。

 

看護とは他者をケアすることが求められる職業ですが、フーコーはこの「ケア」というものをむしろ自分の魂を磨くことに関連づけたと言えます。役割や立場といった機能面で見られる部分も多いとは思いますが、そうではなく、他人からではなく自分が自身をつくりあげることにもっと熱心になるべきで、いわば芸術家が一つの作品を仕上げるように、「自分」を作品として仕上げること、それが「魂の世話」ということになると思います。つまりフーコーの目指す自由とは、自分を固有のもの、独特なものにつくりあげていくことへの自由だったと言えるでしょう。そして看護に携わるみなさんにとっては、日々の他者のケアを実践するなかで、そういう〈私〉の魂を磨き上げている、と考えることができます。

 

看護という仕事は、一方では他者(患者)に一定程度の「知/権力」の枠組みを強要し医者や医療空間における秩序を生成・強化する役割を担っていますが、同時に(反対に)その枠組みを壊し、人それぞれの日常に戻る回路を生成することも行っており、その両者のせめぎあいから自らの生を磨く、そうして自己へのケアを日々行っている、と言えるでしょう。

 

これはサービス業全般やボランティアにも言えますが、「他者のため」に働く(生きる)という仕事(使命:Beruf)が尊いのは、本当のところは「他者のため」だけでなく、それを「自分のため」と深く、分かちがたく、つなげることができるからではないでしょうか。他者をケアすることを通じて自分のケアがなされること、ここに看護や介護の仕事の美しさ、尊さがあると私は考えます。

 

 

次回は、フーコーよりも少し下の世代で、同じく20世紀後半に活躍した哲学者デリダの思想の中でも、とくに歓待論(ホスピタリティ)についての考察を題材に、看護実践における相容れない他者との向き合い方について考察します。そしてフロイトやラカンら精神分析から学ぶ看護実践について、患者一人ひとりの「心」または「言葉」とどう向き合うのかについて検討してみます。さらに、「現代」を生きた哲学者ではありませんが、現代に響く哲学者としてニーチェを「病人」としてとらえ、その言葉に耳を傾けます。そうして最後のまとめには、ボーヴォワールが実母の介護と向き合った「おだやかな死」を取り上げる予定です。

 

 

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