特集:ナイチンゲールの越境  ──[戦争]

小特集「戦争とこころの傷 」﷯
text by 野間正二
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第一次世界大戦と

フィッツジェラルド

 

しかし、繊細な感受性をもつ作家たちは違った。たとえば、米国の著名な劇作家ユージン・オニールは、すでに1918年に『シェル・ショック』という芝居を発表している。また、傑作『グレート・ギャッツビー』を執筆した小説家、F・スコット・フィッツジェラルドは、1919年に「シェル・ショック」を流行の言葉として気軽に使う若い娘を批判的に描いた短編を書いている。

 

さらに彼は、1920年にゴードンという若者を主人公にした中編『メイ・デー』を発表している。イェール大学出身のゴードンは出征前、芸術家肌の人気者で将来を嘱望されたエリート青年だった。だが、第一次世界大戦から帰国して3カ月弱の間に生活は乱れ、就職した会社もすぐに馘首され、たちの悪い女に溺れ、眠れぬ夜をすごし「経済的にも道徳的にも破綻状態」となってしまう。ゴードン自身「(退役の少し前から)ほんとうにだんだんと、気が狂い始めているのです」と告白して、周囲の人間に助けを求めている。あきらかにシェル・ショック(つまりPTSD)に苦しんでいるのだ。

 

 

Francis Scott Fitzgerald(1896 -1940)1920年『楽園のこちら側』でデビューし、24歳でベストセラー作家となる。翌年結婚した妻ゼルダと、作中人物さながらの華麗な私生活を送り注目を集め、1925年に発表した『グレート・ギャッツビー』で“ジャズ・エイジ”を代表する作家として確固たる地位を築く。第一次世界大戦にアメリカが参戦した1917年には陸軍に入隊した。1940年、ハリウッドのシーラ・グレアムの部屋で心臓発作により死去。

 

しかし周囲の誰も、戦場で心が傷ついたゴードンを理解しようとはしない。もちろん同情もしない。むしろ戦争が終わったことで浮かれ騒いでいる。その対比が、この作品では鮮やかに描かれている。帰国したゴードンの変貌ぶりは、周囲の人間には驚きであり不可解だった。それにもかかわらず、誰もあえて気に留めようともしなかったのだ。

 

孤立したゴードンは、エリートの同窓たちが豪華なダンスパーティを楽しみ、その後乱痴気騒ぎをしているさなかの5月1日のメイ・デーの日に、独り安宿の部屋で拳銃自殺する。周囲の人間には謎めいた唐突な死だった。戦死をまぬがれ帰還したのにハッピーエンドではなかったのだ。

 

愛国的な気持ちから戦場で戦った若者が、戦場で心に傷を負い、帰国してから社会にうまく適応できなくて、ひとり孤立していても、周囲の人間は関心も同情も払わない。それが当時の米国の実情だった。

 

作者のフィッツジェラルドは、プリンストン大学を1917年に中退して陸軍に志願し入隊、1919年2月に除隊した。ただし戦場に立った経験はない。しかし1920年前後の社会にみられた、そんな風潮を看過できなかった。そうしたある種の義憤が中編『メイ・デー』を生んだのだった。

 

ヘミングウェイが

作品で表現したPTSD

 

フィッツジェラルドと同様に当時を代表する作家、アーネスト・ヘミングウェイも、シェル・ショックから創作のインスピレーションを受けた小説を書いている。もっともよく知られた作品は、長編『日はまた昇る(1926年)だ。主人公のジェイクは第一次世界大戦を経験したことで、見かけは健康体なのに性的に不能となり、そのうえ信仰心をも失ってしまった。人生の目的も価値観も失った「ロスト・ジェネレーション」の一人として、愛する女性とセックスができないことに苦悩しながら、過度の飲酒を繰りかえし、ほとんどの時間を遊びながらパリの街やスペインをさまよっている。そんなジェイクは、明らかにシェル・ショック(以後、PTSDと称する)の症状を呈していたと言えるだろう。

 

Ernest Miller Hemingway(1899 -1961)医師の家に生まれる。第一次大戦に従軍して負傷し、戦後はカナダ・トロントの新聞記者となる。1921年に特派員としてパリに赴任しながら小説を書き始める。スペイン内乱や第二次大戦を現地で経験した。1926年『日はまた昇る』、翌年『武器よさらば』を発表して「ロスト・ジェネレーション」の代弁者となる。1952年に名作『老人と海』をを出版し、1954年にはノーベル文学賞を受賞する。1961年自宅にて猟銃で自殺。

 

このように、ヘミングウェイのPTSDへの関心は高い。『日はまた昇る』の1年前に発表された短編「兵士の家」には、もっと平凡でふつうの若者クレブスが抱えるPTSDの苦しみが、故郷での1日の生活を通して描かれている。

 

第一次世界大戦に米国が参戦した1917年、クレブスはメソジスト系の大学を退学し、競争率の高い海兵隊に志願して入隊を果たした。彼は愛国心旺盛で勇猛果敢を自認する新兵だった。1919年の夏、第2師団とともに帰国し伍長で除隊となった。しかし彼は、故郷であるオクラホマ州の田舎町に約2年間も戻らなかった。戦場で疲れた心身を休めるため、ふつうならまずは実家にすぐに帰るだろう。そこがこの小説を理解するためのキーポイントだ。

 

だが、帰国から実家に戻るまでのことは、作品中にはなにも語られていない。氷山の8分の7は水面下にあるという「氷山理論」を説いたヘミングウェイらしいレトリックである。つまり表面に現れた一部分を表現することで、隠された大半の部分までをも想像させているのだ。だから直接書かれていないことを推測する材料はある。読者は作品を能動的に読むことが要求される。そこがこの作品のすぐれた点だ。すなわち、クレブスが帰宅してから約1カ月後の1日の生活を知ることで、読者は語られていない2年間の生活を推測できるのだ。

 

実家に戻ったクレブスは、毎日遅くまで寝ていて、読書や玉突きやクラリネットの練習はするが、生産的なことはなにもしない。空いた時間は玄関のポーチに座り、通りを眺めて日々を過ごしている。戦場での経験には嫌悪感をもっていて、そのことを人に話そうともしない。社会との関係を拒否しているのだ。

 

母親から「何かすること決めたの?」と問われても、「そんなこと考えたこともない」と、すげない返事を返すだけだ。自分の未来を思い描けないのだ。また、信仰深い母親にむかって、「ぼくは神の御国にはいない」と、決定的なことを言う。かつては母と同様、彼も神の存在を深く信じていたのに、信仰を失ったのだ。さらに「ねぇ、あなたは母さんを愛していないの?」と訊ねられて、「ああ」ときっぱり否定する。感情が制限されていて、他人への配慮ができなくなっていているのだ。結局その一言のために、クレブスは実家にいられなくなり、大学時代を過ごしたカンサス・シティに、なんの当てもないまま出ていかざるをえなくなる。

 

こうしたクレブスのふるまいも、あきらかにPTSDの症状を示している。そしてクレブス自身は、実家に帰ってきて「事態は再びだんだんと良くなっている」と、自分が回復途上にあると感じている。ということは、そこに語られていない2年間は、今よりもっと深刻なPTSDに苦しんでいたのだと推測ができる。

 

クレブスは勇敢な選ばれた兵士として、故郷から出征した。しかし従軍中にPTSDを発症して、周囲や自分自身の期待を裏切ることになった。さらにPTSDの症状に苦しめられていた。ここに、クレブスが復員直後に実家へ帰れなかった理由がある。

 

復員後の2年間、彼はどこにいたのだろうか。それは、この小説のタイトル「兵士の家」にヒントがある。原題の“Soldier’s Home”は「兵士の故郷」が定訳となっている。日本の研究者や訳者が、直訳の「兵士の家」では小説の内容にふさわしくないと考えたからだ。しかし、原作者のヘミングウェイは、あえて「兵士の家」という言葉を作品名として選び、そこにある意図を込めている。彼はまったく同じ発音のSoldiers’ Home、すなわち「兵士たちの家」を読者に連想させたかったのだ。

 

「兵士たちの家」とは、南北戦争以降に全米各地に数多くつくられた施設の総称で、何らかの事情で故郷や実家に戻れない元兵士が訪れ生活する場所だった12)。おそらくクレブスは実家に戻る前、どこかの「兵士たちの家」に滞在しながら、心の傷を癒やしていたのだろう。作品のタイトルは、そのことを暗示するためのものだとわたしは思っている。

 

帰国してから2年を経たころ、クレブスは「だんだんと良くなっている」と感じ、施設から実家に戻ってきた。だが彼のPTSDは完治してはいなかった。そのため実家の中心にいる母親との間に軋轢が生じ、彼女を決定的に傷つけることになってしまった。せっかく戻ってきた家から出ていかざるをえなくなったのだ。生きて帰ってきても、それはハッピーエンドではなかった。戦争によるPTSDの生みだす悲劇、本人だけでなく家族をも巻きこむ悲劇が、平凡で善良なふつうの若者の、戦争を経験して心に傷を負った姿を通して描かれている。

 

ところで、作者のヘミングウェイには─自己演出のきらいがたぶんにあるが─、一般にマッチョな「パパ・ヘミングウェイ」のイメージがつきまとっている。サファリで殺した猛獣を前に撮られた記念写真を目にした人も多いだろう。彼が描く主人公、たとえば1940年に発表された『誰がために鐘は鳴る』のジョーダンは、映画『インディ・ジョーンズ』のジョーンズ博士のように、死を恐れず、敵にひるまず戦いつづけるタフでマッチョな若者だ。心の傷とは無縁と思われるようなヒーローである。しかし一方で、1920~30年代に書かれた作品には、戦場で心が傷ついた兵士の姿が描かれている。

 

それには理由がある。この作家自身が18歳のとき、第一次世界大戦で心身が傷ついた経験をもつからだ。1918年、ヘミングウェイは赤十字の傷病兵運搬車の運転手を志願して、6月22日にイタリア戦線の前線へ到着した。そして7月8日の夜、迫撃砲の攻撃を受けて両脚に重症を負い、ミラノの赤十字病院に5カ月半も入院した。この時の恐怖と負傷は彼の心に深い傷を残した。心的なトラウマとなった。入院中は不眠に苦しみ、飲酒を繰りかえしている。そのトラウマを3つの短編「異国にて」「身を横たえて」「誰も知らない」として具体的に作品化するのに、負傷から9年以上もかかった。そのことからも、彼の受けた傷の深刻さが推測できる。

 

ヘミングウェイは実際に戦場のトラウマに苦しんだ経験を、小説に書くことで克服しようとした作家である。そしておそらく、タフでマッチョな自画像を創りだすことにより、つまり虚像を纏うことで、トラウマに苦しんだ過去をも忘れようとしたのだと思われる。そうした無理の蓄積が、62歳での猟銃自殺にいたった一因になったのだと、わたしは考えている。

>>第二話に続く

 

   

第二話 サリンジャーとオブライエン

 

のま・しょうじ1949年 京都府生まれ。大阪市立大学大学院退学・兵庫県立ピッコロ演劇学校修了。1996年 京都府立大学文学部教授、2007年 佛教大学文学部教授。文学博士(京都大学)。著書に『芝居もおもしろい』(近代文藝社・1992年)、『読みの快楽─メルヴィルの全短編を読む』(国書刊行会・1999年)、『戦争PTSDとサリンジャー─反戦三部作の謎をとく』(創元社・2005年)『「グレート・ギャツビー」の読み方』(創元社・2008年)、『小説の読み方/論文の書き方』(昭和堂・2011年改訂版 2015年)などがある。

 

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