人工知能のつくりかた

 

皆さんは毎日、いろいろな「ソフトウェア」や「アプリケーション」を使っておられると思いますが、人工知能とはつまり、それらに「知的機能」がついたものです。これは具体的にどういうことでしょう?

 

通常のソフトウェアは人間側が操作を覚えます。情報操作の次元における道具の延長です。エクセルやワードなど、専用のソフトウェアはそういうものです。一方で人工知能の場合、たとえば何度か操作を間違うと「これはこのようにして操作するのですよ」と話しかけてくれたり「そのファイルは古いです。新しいものはこっちですよ」など、ユーザーのインプットを解釈して導いてくれます。

 

あるいはインターネット・ショッピングでは、購入履歴を見て「あなたはこういうものも気に入るのではないですか?」と教えてくれます。また人工知能を搭載したロボットなら、お年寄りのお買いものを持ってくれたり、信号を一緒に渡ってくれたり、目が悪ければ目的地まで道案内もしてくれます。

 

これらを「知的機能がついたもの」と表現したのは、人工知能がまだ人間ほど賢くないからです。人間の知的能力の一部を拡大して実現する今の人工知能は、一つの課題、たとえば計算や経路検索、囲碁を打つなどの面では人間以上の能力を発揮しますが、ヒトが持っているような一つのまとまった知能としては実現されていないのです。

 

ですから、人間はうまく人工知能を使いこなしながら、自分の仕事の一部の効率を上げたり、生活の質を上げて行くことが重要になります。かつて、20年前には「コンピュータをうまく使いこなそう」という空気がありました。それが今は「人工知能をうまく使いこなそう」という掛け声に転換されつつあるのです。でも焦る必要はありません。コンピュータが自然に普及していったように、人工知能もまたゆっくりとわれわれの生活の中に浸透してくでしょう。

 

 

人工知能と身体

 

人工知能は身体を持たない知能と、身体を持つ知能に分けられます。身体を持たない知能は「渇いて」います。つまり現実のさまざまな問題に身体を介して接触することがないので、完全に論理的な問題を解いていく人工知能となります。一方、身体を持つ人工知能は現実の世界に接していますので、自分自身の身体性を持ち、環境とさまざまな相互作用を伴いながら運動します。つまり現実世界を「生きる」のです。

 

それだけではありません。人間は内臓を持ち脳を持ちます。世界との関わりの中で、身体はあらゆる瞬間にあらゆる感覚と運動を通して自分の身体の状態を認識し確認します。つまり、内側から能動的に世界をとらえているのです。

 

たとえば「走る」ことを考えてみましょう。その行為は、ただ目的地に早くたどり着く手段だけなのではありません。走るあなたは自分の胸が鼓動するのを感じ、一瞬一瞬足が着く瞬間に、地面の感触と自分の姿勢を確認します。それは地表の状態を知ると同時に次の動作を展開するために必要な身体運動を予測し、自分のからだをどのような状態に持っていくかを決定するのです。

 

安定した走りになると、風が気持ちよくなります。運動のリズムに乗っている感じです。風の感触は自分の速さと前方の開けた空間の安全性を教えてくれます。一歩ずつ踏み出す足は、完全に自分のコントロールの内にあり、自然な運動の流れが実現します。このように、人間はその一瞬一瞬に運動を展開しながらも、あらゆる器官を通して自分に必要な情報を取得し、まとめ上げ、認識し、行動を創作しているのです。

 

僕がつくろうとしているのは、このようにして生きている人間と同じように、身体を通じて自分自身を内側から生きることができる人工知能です。そのプロセスと成果は、すなわち人間自身を知るチャンスでもあるのです。

 

 

人工知能への二つのアプローチ

 

ここで、人工知能をつくる時の2つの大きなアプローチをご紹介しましょう。一つは時計仕掛けのように部品を積み上げ組み合わせていくという、通常のエンジニアリングでは基本となる方法です。電化製品や電子回路だけをつくるのであればこれが一番正確なやり方ですが、その背景には「世界と知能を明確に分ける」というサイエンスの発想が含まれています。

 

しかし、知能とはそういうものでしょうか? 知能をつくるためには人間の内面へ深く食い込んでいく必要があります。そこにある原理や性質を知ることは、月の運行や化学反応を知ることとは違うはずです。

 

知能の起源を考えてみましょう。現在の学説では、それは海から生まれたと言われています。海中でさまざまな元素が寄り添いながら身体を為し、環境の中で自分の身体を確認し始める。つまり環境の一部として生命は生まれたのでした。同様に、人工知能を考える根本思想においても「環境に埋め込まれた存在として知能をつくろう」とするアプローチがあります。それが「現象学」です。

 

 

人工知能のための哲学塾

 

人工知能のための哲学塾」は、人工知能をつくる足場となる哲学についての解説と議論を、全6回のセミナーとして開催したものです。このイベントは同名の書籍としても出版されました。

 

 

 

「人工知能のための哲学塾」第五回、ワークショップの様子

 

 

『人工知能のための哲学塾』

(三宅陽一郎 著/ビー・エヌ・エヌ新社/2016)

 

 

われわれは人間である以上、誰もがなんからの「考え方」を持っています。つまり教育や社会の常識というものを通してすでに一つの哲学の中にあるのです。「いや、私の考え方は野生のものである」という方もいるかもしれませんが、それもそれで一つの哲学なのです。こうした「考え方」そのものを変更する必要が生じたとき、哲学の探求が始まります。哲学とは考え方を考えることなのです。

 

時計仕掛けのように要素を組み合わせて運動させることで知能を実現しようとする考え方を、機械論と言います。しかしこの理論に基づいて意識や精神、知能を生み出すことは難しいのではないかと思います。なぜなら、どこまで行ってもそれは仕組みの集合であり、物事の骨格しか抜き出しておらず、ある一つのキャラクターが固有の体験を経験していることにはならないからです。

 

そこで、機械論ではなく「環境と一体となった知能のあり方」を考える「現象学」として人工知能を考えてみようと促すのが「人工知能のための哲学塾」の根本を為す思想でした。このセミナーの前半は僕による一時間の講演からなり、後半は参加者がグループに分かれ、それぞれ異なるテーマでワークショップと発表を行うスタイルで行われました。

 

たとえば次のようなテーマが議論されました。

 

  • デカルト的世界観における人工知能と、フッサール的世界観の人工知能の違いは何か?
  • 人工知能、あるいはロボットに環世界を与えることは可能だろうか?
  • ゲームキャラクターやロボットは、主観的世界を獲得することができるか?

 

一つひとつの問題は、決してすぐに答えの出るようなものではありません。しかしこれらの問いをめぐって議論することで、人工知能が持つ深淵を体感することになります。

 

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