Edward T. Cook
"The life of Florence Nightingale"
(『ナイティンゲール─その生涯と思想』)
「夫婦が孵(か)へしたのは白鳥ではなく鷲であつた」
フローレンスが死去したのは1910(明治43)年8月。それから3年後の1913(大正2)年、エドワード・クックはフローレンスの従弟が保管していた資料をもとに『The life of Florence Nightingale』(邦題『ナイティンゲール─その生涯と思想』)を著した5)。クックのこの伝記はナイチンゲール研究における画期的な業績ともいうべきもので、この書を境にフローレンスのイメージは大きく変化した。フローレンスが関係者と交わした書簡の一部が初めて公にされたおかげで、裕福な家庭に生まれ育った貴婦人が安楽な生活を打ち捨ててまで、なぜ多難な看護活動に飛び込んでいったのかという、フローレンスの存命中には謎に包まれていた事情が明らかにされたのである。
たとえばリットン・ストレイチは1918(大正7)年、ランプを掲げる天使のイメージとは別の、古い因習と戦った猛々しさを秘めた女性として、鮮烈なナイチンゲール像を描き出した6)。ストレイチのこの評伝はクックの伝記を待って初めて可能になったものであり、「従来の伝記を文学的な読み物にまで高めた」という名声を得ている。
その書き出しは以下のとおり。
フローレンス・ナイチンゲールの一般的槪念は誰しも持つてゐる。聖徒の様な、献身的な婦人、苦しむ人々を救ふために安易な生活の楽しみを捨てた身分の高いか弱い乙女、惨鼻を極めたスクタリの病院の中を静かに歩んで、慈愛の光で瀕死の兵士の病床を淸めた「燈をもてる女人」──かうした幻像は総ての人になじみ深い。しかし実際はこれと異なつていた。事實のナイチンゲールは輕々しい空想に描かれた女性ではなかつた。彼女は別の方法と別の目的をもつて働き、普通の想像の及びもつかぬある力に推進されていた。悪魔[原文ではdemon、デーモン]に憑かれたのであつた。思ふに悪魔なるものは何を措いても興味深いものである。適ゝ實説のナイチンゲールは、傳説の彼女より興味深い点が多く、それだけに快適なところがある。7)
では、その「デーモン」とは何か。クックの伝記を下敷きにしているのだから、ストレイチがその事情を知らないはずはない。しかしストレイチは、「なぜ彼女は陋屋の貧しい人々を助けたり、病床の看取りをしたり、傷ついた犬の足をまるで人の足のやうに入念な副木で支えてやるやうになつたのか?」とまで本文で書いておきながら、フローレンスが看護の仕事に従事するに至った動機については何ひとつ具体的な説明を与えていない。
「實際ナイチンゲール夫人[フローレンスの母親]は親しい友に泣きたいやうなことが時々あつた。『私達は白鳥を孵へした家鴨です』と彼女は涙ぐんで云ふのであつた。しかしこの夫人も不幸にして思ひ違いをしてゐた。夫婦が孵へしたのは白鳥ではなく鷲であつた」と文学的に書いているだけである。
ひょっとしたら、こういうことかもしれない。かつてフローレンスが社会に対して理不尽だと感じていた気持ちは、20世紀代初頭の英国の読者にとっては、すでにくだくだしい説明が必要ではないほど、広く共有されていたのかもしれない。しかし日本では事情が違った。
Lytton Strachey
"Eminent Victorians"
(『フロレンス・ナイチンゲール』)
「日本ではとても為し得られない」
日本における最初期のナイチンゲール研究者の一人、村田勤はフローレンスが亡くなって10年が経った1921(大正10)年、クックの伝記を入手してその重要性を認識した。その結果、これまでのナイチンゲール伝はかつて村田自身が著した著書も含めて、たんなる「伝説」にすぎず、「伝記」とは呼べない代物になったと書いた。
元来鶯嬢[フレーレンス・ナイチンゲール]は極めて謙遜な性質であつて、自分のしたことを世間に吹聴されることを心から忌み嫌つた。自身はいふまでもなく、親戚知己にさへ、傳記材料を他人に貸し与へたり、若しくは話したりすることを堅く禁じてあつた。それであるから生前世に公にされた傳記は英語でかゝれたものと雖(いえど)も、すべて事實の断片を寄せ集めて、それに想像的の彩色を施したものであつた。簡言せば傳記ではなく、傳説に過ぎなかつたのである。私の前著は米国のリチャーズ女史の本を専ら参考としたもので、今後はたゞ少女達の読み物に供せられるであらう。7)
クックの伝記がもたらした衝撃を真正面から受けとめた者の証言である。村田はクックの伝記を丹念に読み解き、全300ページの1/3を費やしてデビュー前の彼女の心境を説いた。日本ではこの書によって初めて、フローレンスの動機が詳しく明らかにされたわけである。
村田は、フローレンスの活躍を可能にした背景についても言及している。それは英国のストレイチが、いわばすでに常識として共有されている心情として、あえて説明しなかったものとも言える。フローレンスが活躍の場を得るには、彼女の気持ちを理解し、その活動を支援する者たちが必要だった。1800年代の英国にはそのことを可能にする共通の経済的・文化的基盤をもつ社会層が存在していた、と村田は説く。
一千頁に餘る詳しい鶯嬢の傳記を熟読した自分にさへ、時折解しかねる點があるやうだから、一般讀者の為に私の心付た事と彼が平静の生活の模様を叙べて、この不思議な女傑を理解する資料(たすけ)にしたいと思ふ。その一は嬢の生活した英国の社会及び家庭の模様が、我邦現今のそれと大に違ふて居るということである。〈中略〉ナイチンゲール家の社会的地位はどの邊であつたかといふに、そは上流階級(ゼントリイ)ではなく、中流階級(スクワイア)に屬してゐた。7)
村田 勉
『フロレンス・ナイチンゲール嬢伝』
あまたあるナイチンゲール伝の中で、「ナイチンゲール家は上流階級でなく中流階級であった」と書いた評伝は、この書を除いて筆者は知らない。そして村田のこの指摘は、ナイチンゲールの物語を読み解くうえで重大なヒントを与えている。
ワルタアロー戦争(一八一五年)後、英國の上流社会と中流社会の大部分に取つては、生活問題は殆ど思慮の外であつた。ケムブリッヂ、オックスフオード両大学の紳士教育は、かゝる社会を背景として初めて行はれたもので、この背景の存しない邦にその教育を移植しようとしても、到底駄目であらう。7)
英国ではすでにこの時期、今日明日の生活にあくせくしなくてもよい者たちがひとつの社会階層として形成されており、同質の価値観を共有していた。
本書の主人公も嘗て生活の事を顧慮する必要がなかつた。唯どうして、何をして、どういふ目的の為に、我一生を送るべきであらうかと考へたのであつた。彼女がこの問題をどう決めたかといふ事は詳しく本傳に記したから、此に述べるには蛇足であらう。7)
そのうえで村田は、こうした社会階層がいまだ出現していない大正期の日本では、フローレンスのような女性の登場を望むのは難しかろうと嘆いた。
唯鶯嬢が不自由の身で、自由の活動を試み、その親戚友人も寛大親切に手伝つて、その志を遂げしめたのを見て、日本ではとても為し得られない、又殊に男尊女卑の国では為すことを許されない現象であると思ふ。その原因は恐らく生活程度と国民性の相違にあるのであらう。とにかく文化生活の可能性を多量に具備して居る社会とその国民は幸福である。経済的にも倫理的にも、我等にはまだ向上すべき広い餘地があるやうに思ふ。7)
さて今日振り返って、はたしてどうだろうか。現代の日本では、フローレンスに共感できる女性は、はるかに増えているのではなかろうか。
親類や近隣の行事のために時間を空費したり、毎日とりとめもなく何かをとりちらかしているだけの生活はまっぴらだ。日々の糧を稼ぎだすためにだけ働きたいのではない。わたしの全力を捧げるに値する仕事に就きたいのだ。〈まさにこの仕事を成し遂げるために、今日までのわたしがあったのだ〉と心の底から思えるほどの仕事に就きたい。〈わたしがその場にいなくては、どうあってもその事業は立ちいかない〉と言えるほどの仕事に。──これがフローレンスの気持ちだった。
子どもにはこういう気持ちはわからない。しかし大人になってそういう気持ちを抱いたとしても、女性というだけでその気持ちを実現する機会は阻まれていたし、今でも狭められている。だからこそフローレンスの物語は、今日に生きる者にとっても、身を切られるような話として読むことができる。
おわりに
フローレンス・ナイチンゲールの研究はクックの伝記をもって終わったのではない。1949年、セシル・ウッダム=スミスは、クックが見ることのできなかったフローレンスの近親者たちの資料をもとに、新しいナイチンゲール伝を公にした8)。この書によって、フローレンスの青春期の苦悩はより鮮明に描かれることになった。日本でも『ナイチンゲール著作集』全3巻9)の刊行(1974~77年)やセシル・ウッダム=スミスによる伝記の翻訳刊行(1981年)8)を基礎に、フローレンスの理解は格段に深まった。それと並行して、彼女の心情に共感できる者たちの層も、英国の内外を問わず広がっていった。
Cecil B. Woodham-Smith
"Florence Nightingale, 1820-1910"
(『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』)
これまでにもフローレンス・ナイチンゲールは何度も「発見」されてきた。筆者の手元にあるだけでも、戦後、20本以上の書籍や雑誌で「ナイチンゲールの再発見」が語られている。なるほど彼女は生前から偶像化され、国家にとって都合のいい模範的な女性として持ちあげられてきた★1。けれども、彼女は既存の社会規範を体現しただけの人物ではなかった。フローレンスは時代の新しい潮流に押しあげられながら、古い規範を破壊し、新しい規範を打ち建てる境界線上に立ち、そして見事にそれをやってのけた。
フローレンスが社会に登場する前と後とでは、社会の規範が異なっている。彼女がそれを変えたからだ。新しい規範を打ち建てる過程で、彼女は「道徳の破壊者」とならざるをえなかった。「修身のお手本」どころではなかったのだ。しかしまだ続きがある。彼女がつくった新しい規範が人びとに支持され、それが既存の規範となる過程で、フローレンスは「道徳の守護者」としての位置に立たされることになった。
フローレンスが既存の規範の第一人者として押し出されるうちに、当初は鮮烈で新鮮だった人物像は輝きを失い、陳腐で形骸化した通俗道徳の体現者へと廃頽していく。その結果は、ナイチンゲール伝説の忘却だろうか。いや、ナイチンゲールの神話を暴き、実像に迫ろうとした人たちは、彼女が直面した深い葛藤を目の当たりにし、実像にたじろぎ、圧倒され、そうして本当のフローレンス・ナイチンゲールを何度も再発見してきた。
こういうことが起こるのは、わたしたちが自らの経験をもとに彼女の人生を生き直し、新しい規範を自分の中に打ち立て続けているからである。子ども向けの伝記ではフローレンスの本当の気持ちは伝えられない。だからこれからも、子どもが大人になってフローレンスの物語を読み返したとき、「ナイチンゲールの再発見」をするだろう。
試みに近くの本屋に行き、子ども向けのナイチンゲール伝を手にとってみてほしい。売り場の中でいちばん厚い本がよい。子ども向けに書かれた本文ではなく、大人を対象にした巻末の解説を立ち読みすれば、あなたは必ずやその場で「ナイチンゲールの再発見」をして立ちすくむだろう。
(おわり)
◉ 引用・参考文献
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