Briton Rivière "Una and the Lion" (from the poem, The Faerie Queene by Edmund Spenser), 1880.

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フローレンス・ナイチンゲールというと、一般的なイメージは「白衣の天使」「ランプの貴婦人」など、優しく慈しみ深い女性を思い描くことが多いのではないでしょうか。それは子どもの頃に読んだ彼女の伝記の記述が影響しているかもしれません。優しく美しく気高く、そして困難に負けない強い信念を持つフローレンス。そこから子どもたちの模範像たる「ナイチンゲール神話」が生まれました。

 

しかしもちろん、博愛と献身だけでは人の命を救うことはできません。女性は良妻賢母であることが望まれていたヴィクトリア朝時代、フローレンスは当時の社会規範を打ち破り、自ら行動を起こして理想を追い求め、権力に臆することなく闘い抜いた人でもありました。

 

「天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者のために戦う者のことだ」とフローレンスは語りました。19世紀末から20世紀前半に出版されたいくつかの伝記を通して、彼女の実像を探ってみましょう。

(編集部)

 

傷ついた犬を世話する少女

 

多くの人はフローレンス・ナイチンゲールと聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。「幼い頃、けがをした犬を世話した心優しい女性」というイメージを持っている人も少なくないだろう。現在日本で出版されているナイチンゲールの伝記にもこの逸話はしばしば載せられている。その結果、「けがをした犬を世話するほどに情け深かった少女が、長じてけが人の世話をするようになり、時あって戦場でナースとして活躍するに至った」という神話ができあがってしまった。

 

戦前日本の修身教科書に登場するフローレンス・ナイチンゲールは、まさにこうした文脈で語られていた。たとえば『尋常小学修身書』(1911年から1942年まで)には「生き物をあはれめ」「博愛」という項目があって、それぞれナイチンゲールが、けがをした犬を世話した話と戦場にあって看護に尽力した話が載せられている。つまり彼女の事績の半分は傷ついた犬を世話した話に費やされていたわけだ。

 

 

尋常小学修身書 巻「第十九 生き物をあはれめ「第二十 博愛」

 

 

だが誰だって大人になれば、こんな子どもだましの物語をそのまま受け入れることなどできない。それはそれでよいとして、ではなぜ彼女は上流階級の裕福な生活を投げ打ってまで、看護に専念しようとしたのか? 看護を天職だと信じ、戦場での任務に自ら志願するに至ったまでの彼女の心境はどうだったのか? この点が釈然としないかぎり、フローレンス・ナイチンゲールはなんだか不思議で、どこかうさんくさい人物であり続ける。

 

フローレンス・ナイチンゲールがスクタリの野戦病院に派遣されて後の事柄については多くの記録や証言が残されており、どのような彼女の伝記でも事実に比較的忠実な記述がなされてきた。ナイチンゲール看護団が病院の死亡率を劇的に低下させたという誤解や、当地での彼女の行状についてかなり誇張を含んだ伝記があったこともたしかだ。しかしそれは、看護団が戦地に派遣されたときから彼女が絶えずさらされてきた誤解や誇張であって、あり得もしなかったおとぎ話がつくりあげられているわけではない。

 

しかし、こと彼女の看護が仕事に従事するに至った動機に関しては、ほとんどの伝記がまるで説明できていない。そして肝心なことが書かれていないので、話の一貫性が破綻しているのだ。

 

 

朝起きても、今日も何もすることがない

 

それには無理からぬ事情があった。というのもフローレンスは生前、自分が看護の仕事に従事するに至った心境を誰かに明かすことは決してなかったし、親戚や友人との間で交わされた手紙の類を他人に披見させることもいっさい許さなかったからである。だから彼女の若い時期の、ことに公務を引き受けるに至るまでの心の動きについて、それを知る人は家族やごく限られた親しい友人だけであった。そしてその事情を知っていた人たちは、事情を知っていたがゆえに、決してそれを公にしようとはしなかった。

 

若い頃のフローレンスは、1800年代における英国上流階級の女性に期待されていた行動規範と決定的に対立していたのだった。1800年代において英国上流階級の女性に期待されていた行動規範とは何か。それは対価を得る労働をしないこと、一貫した継続性のある事業に従事しないこと、余暇に遊興に耽ること、一生の伴侶を得て、近親者の世話に傾注することである。つまり責任ある仕事を何も引き受けることなく、ひまな時間をどうでもいい余興でつぶし、明けても暮れても近親者や高位者のゴシップに夢中になり、何ひとつまとまったことをなしとげず、虚しく人生を終わることだ。

 

「朝起きても、今日も何もすることがない」――そのことをなぜつらいと感じるのか。フローレンスのまわりにいた人たちは、家族を含めてそのことが理解できなかったし、自分たちの行動規範から逸脱しようとする彼女の行いを決して許そうとはしなかった。そして、たとえ功成り名遂げた後であっても、親類家族を苦しめるような暴露を彼女自身がすることはなかったのである。

 

フローレンスは自らの動機を決してあからさまに公にはしなかった。しかし彼女と同じような境遇にいて、彼女の心情に共感できた者たちはその機微に感応し、フローレンスがまだ存命だったときにすでに截然とした評伝を書くことができた。そして、そういう作者は日本にもいた。

 

 

女性の特権に甘えるな

 

1894(明治27)年8月、徳富蘆花は「史談 修羅場裡の天使(ナイチンゲール女史の事跡)」という記事を『家庭雑誌1)に連載する。時あたかも日清戦争開戦直後。この時にあたって40年前に欧州の東で起こった戦争を振り返り、今なお名声の誉れ高い一婦人の働きを回想し、あわせて赤十字社設立の趣旨を説き及ぼそうとの意図である。格調高い名文と詳細な内容とが相まって、徳富蘆花のこの記事は、その後の日本におけるナイチンゲール伝の模範となった。

 

だがこの記事をもってしても、フローレンスの動機を判然と説明できていない。「女史の天職は已に其の幼児に定まり居たりし」というおきまりの説明を抜け出しておらず、「富裕なる英国田舎紳士の家に生まれて華奢安逸渾て意の如くなりし女史は、此等のものを塵よりも軽く棄て去て、遍く世の痛苦者疾病者の友たらむ」としたというが、その理由は相変わらず不明である。

 

これに対して、竹越竹代『婦人立志篇2)(1892[明治25]年)は、フローレンスが看護活動を生涯の職務とした理由を明確に把握していた。その理由について竹越はこう伝えている。

 

かくして彼女は成長するにつれ、自分の能力を最大限に発揮したい、一貫した事業に従事したいという気持ちを高めたのだった。上流階級の女性が陥りがちな、安易で責任の伴わない慈善事業などではない、何かもっと他の事業に携わりたいという気持ちを抑えることができなくなった。彼女の書いたものの中にこんな言葉がある。「世の中には、なんとしても成し遂げられねばならない事業というものがあるのです。………男女を問わず、人生における最高の幸福とは、自分の能力を最大限発揮できる機会を得て、そこにすべての時間を傾注できるところにあります。」この言葉は、彼女がいかに気迫に満ちた人であるか、安逸な誘惑に負けない人であるかをうかがわせます。(現代語訳:筆者)

 

『婦人立志編』

(竹越竹代著、1891年)

 

竹越がこう書くことができたのは、他の評者が採らなかった独自な資料、ナイチンゲール著『ユナとライオン3)に基づいたからである(フローレンスが最も信頼を寄せていた教え子、アグネス・ジョーンズへの追悼記事として1868年6月に雑誌「Good Words」に掲載され、後に書籍化された)。ナイチンゲールはこの中で、自らが切り拓いてきた新しい時代における看護について、女性がこの職務を担う社会的意義を説き、それは高度に専門的な訓練を要する手技(アート)であると説明し、「新しい時代の看護者アグネス・ジョーンズに続け!」と呼びかけている。フローレンスは最愛の弟子の死に臨んで、あたかも自らの追悼文を書いているかのようである。

 

竹越はこの意図を的確に受けとめ、いち早く日本に紹介した。この記事の中から、フローレンスが「貴婦人の女々しい口実」を痛烈に批判している箇所を紹介しよう。

 

「わたしには自由な時間があるので、世間のために何かをしてさしあげたい」などとお申し出になるご婦人にお目にかかることがあります。そういう方にわたしが忠告してさしあげたいのはこういうことです。まずはその事業にふさわしいだけの訓練をお受けなさい、男性がそうしているのと同じようにです。男性が携わっている事業にあなたも加わりたいのなら、女性の特権とやらいうものを求めてはなりません。(現代語訳:筆者)

 

「婦人の特権を求め給ふ勿[なか]れ。即ち不十分、微弱、愚昧、此等のものは婦人の特有質なりとて、事業上に此等のことあるも尤[もっとも]の事なりと宥恕を求め給ふ勿れ。」──ちゃんとできなくても、仕方ないわよね。わたし、か弱いんです。頭あんまりよくないんです。そんなことが女性の特権だなんて。事業の一翼を担うにあたって、そんな言い訳が許されるなどと考えてはなりません。(現代語訳:筆者)

 

フローレンス自身の心情について竹越ほど的確には説明できなかったにしても、しかしフローレンスが同時代の女性たちに求めた新しい規範を伝えようとした評者は、このほかにも少なからずいた。たとえばある評伝はこう説いている。

 

今回、戦地に女性看護婦を送るとのことだが、これはわがイギリスの歴史に例を見ない、まったくの珍事である。いや、むしろ「善良なる婦人の習俗」と言われるものに違反する事業であるともいわれている。しかしもしナイチンゲール女史のこの事業が成功すれば、それによって彼女の名誉は永世不滅のものとなるだけでなく、これによって英国女性界を支配している古い習慣や偏見は打破され、女性の地位は大きく前進向上するであろう。(現代語訳:筆者)4)

 

筆者が調べた限りでは、フローレンスがまだ生きている間に日本で発表された評伝26本のうち、少なくとも9本は「ナイチンゲールがなぜ看護団の団長に任じられたのか」について納得できる説明を下している。それはつまり、女性の社会的進出を後押ししようという意図に沿って彼女の事跡が語られていたということである。女性の社会的進出を実現するために求められる道徳的な条件を、そういう形で示そうとしていたとも言える。国定修身教科書でのナイチンゲールについての記述だって、こうした文脈で読むことも可能だ。

 

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松野 修  まつの・おさむ

元・愛知県立芸術大学教授。1952年生、愛知県生まれ。名古屋大学大学院教育学研究科博士課程、単位取得満期退学。博士(教育学)。主な主著に『近代日本の公民教育』名古屋大学出版会、1997 / フローレンス・ナイチンゲール著、松野修訳:英国陸軍の衛生状態、総合看護、23巻4号、1988 / 英国におけるナイチンゲール伝説の形成、愛知県立芸術大学紀要、41号、2012 / 日本における国際赤十字連盟とフローレンス・ナイチンゲール、愛知県立芸術大学紀要、42号、2013などがある。

 

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