『西洋傑婦伝 第二編 ナイチンゲール』(初版)より。左:表紙、右:「赤十字社病院看護婦学校では、卒業の際に必ずナイチンゲールの写真を渡して、座右の銘にしなさい」と示された箇所。(国立国会図書館デジタルコレクション)
皇室の権威を借用したのは、日本だけの特質ではなかった。国際赤十字条約の実現に奮闘した国際法学者たちは当初から、各国政府を説得するにあたって、皇帝や王室の権威に訴えてきた。デュナンは王室の権威を梃子(てこ)として利用しただけでなく、各国における戦時救護活動の事例を発掘して説得にあたっている。デュナンが国際赤十字条約の理念を記した『朔爾弗里諾之紀念(ソルフェリーノの記念)』には、ミラノ大司教の聖カルロ・ボルロメーオ、カステル・モロンのベザンゼス司教、ブザンソンの修道女シスター・マルト、クリミア戦争におけるフランスの修道女たち、ロシア大公后エレーヌ・ポーローナ、そしてイギリス陸軍看護団長フローレンス・ナイチンゲールとメアリ・スタンレーらの名前が挙がっている。
日本赤十字社はキリスト教の聖者やロシア皇太后(!)の事跡を引くわけにはいかないので、ナイチンゲールをそのシンボルとして選択したのだった。1901(明治34)年の時点で「我邦赤十字社病院看護婦学校(及各県支部)にては、生徒卒業の際に必(かならず)嬢(ナイチンゲール)の写真一葉づゝ下附して、以て座右の銘に備へしめ居れり」注5 とある。
日本赤十字社は、生前のフローレンス・ナイチンゲールと直接面会するためにも努力をしてきた。石黒忠悳は、赤十字社幹事・松平乗承とともにロンドン在住のフローレンスを表敬訪問。津田梅子は1899年(明治32年)春、フローレンスに面会し、日本での赤十字社の活動について報告している。翌1900年(明治33年)夏には、文部省派遣留学生・安井哲子がフローレンスに会う。「私は日本の国では誰人も嬢の名を知らぬものゝないこと、我邦赤十字社会員の増加のこと、及び、皇后陛下を始めとして諸貴顕の御夫人方の斯業に付いての御熱心御尽力の模様——を御話ししましたら嬢は大層御喜びになつた」 注5 とインタビューに答えている。フローレンス80歳の年、1900年には、日本赤十字社総裁である皇太子妃が彼女に親書を送っている。
ナイチンゲールと「博愛」
日本では日清戦争、日露戦争を契機として日本赤十字社従軍看護婦の活躍が伝えられ、それに伴ってナイチンゲール神話が広く流布していった。戦前の日本では、ナイチンゲールが赤十字社やジュネーブ条約と切り離されて語られることはむしろ稀だった。1886年、国際赤十字連盟への加入を契機に日本赤十字社はその支部として再編されたが、このジュネーブ条約ないし日本赤十字社を象徴するのにうってつけの人物がナイチンゲールだったのである。
赤十字条約実現の功績はアンリ・デュナンにあったとはいうものの、デュナンの肩書は篤志宗教家というべきもので、彼の事跡を語ろうとすればキリスト教についての説明が多くなりすぎるため、キリスト教圏内ならともかく、日本ではそれはとうてい受け入れられない。その点、かつて戦場に派遣されたナイチンゲールは、赤十字社従軍看護婦の前ぶれとしての位置にある。加えて、ナイチンゲールは自らが看護団を編成したときから、特定の宗派を越えた非宗教的性格を持たせることに腐心していたし、彼女自身も世俗の民間人としての性格を保持するために慎重に行動していた。そのため、民族や宗教を越える道徳的項目、つまり「博愛」を体現する人物としてはナイチンゲールのほうがずっと好都合だった。
それに何といっても、未婚の貴婦人のほうが訴求力は抜群に高いではないか。戦前から「世間ではナイチンゲールが赤十字社を創設したかのように誤解されている」と指摘されてきたが、そうした誤解を招くように意図的に象徴操作が行われてきた、というべきだろう。
こうした背景のもとで、戦前の日本ではナイチンゲールは赤十字社を象徴する存在となった。国定修身教科書では、ナイチンゲールの事績は「博愛」という徳目に関連づけられ、教師用指導書にはその際、赤十字社についても解説するよう指示されていた。戦前の国定修身教科書に登場する西洋の女性はナイチンゲールただひとりだったこともあって、彼女の知名度は抜群だった。
ただし、「博愛」とは当時の社会にあって、傷ついた犬を世話して満足するような、腑抜けた心がけなどではなかったことを改めて強調しておく必要がある。
1945年以前の日本社会において「博愛」とは軍国主義や「忠君愛国」と相反するどころか、「軍国」も「忠君」も「愛国」も「博愛」なくしてはその正当性を失いかねないほど切実な関係にあった。そもそも徴兵制が現に機能しており、戦争勃発の可能性が常態化していた戦前の日本にあっては、一般成人男子が海外に派兵され、実際に戦闘に参加する事態がいつ起こっても不思議ではなかった。だからこそ、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』の一節は、今日とは比較にならないほど迫真性を帯びていたのである。
「教育勅語」(明治神宮蔵)で扱われた12の徳目の1つ「博愛衆ニ及ボシ」(広くすべての人に愛の手をさしのべましょう)。
そして戦闘にあたっては、非戦闘員に危害を加えないのはもちろんのこと、敗軍の将兵を辱めず、捕虜を虐待せず、敵味方の別なく救護してこそ、はじめて戦争の究極の目的が達成せられる。なぜなら、敵国人民が自から積極的に帰順してこそ、真の平和が実現するのだから。
のみならず、戦闘で勝利を収めるだけでなく、国際世論を味方につけてこそ、和平交渉の場で優位に立つことができる。だから「万国公法」、すなわち戦時国際法に違反するような行為があれば、自国の利益に甚大な損害をもたらしかねない。プロイセンの軍事研究家クラウゼヴィッツが見事に言い当てたように、まことに戦争は政治的交渉の延長にすぎないからである。
第一、戦場で婦女子を凌辱し、人民に暴虐を振るうようなことがあれば、「正義を実現する天皇の軍隊」はたちまちその正当性を失うではないか。『教育勅語』が「博愛衆ニ及ホシ(広くすべての人に愛の手をさしのべましょう)」と謳った理由は、実にここにある。国民道徳における「博愛」の程度如何は、外交上の大きな課題となってのしかかっていた。「博愛」を基礎とする赤十字条約は、日本にとって欧米各国との間で交わされた最初の対等な国際条約であり、日本国政府の国際赤十字連盟への加入は、「東洋の文明国」の証であった。それは裏を返せば、日本が近隣アジア諸国に対して不平等条約を強い得る根拠にもなっていたのだった。
ナイチンゲールという人物に託されていた博愛的行為は、戦場においてこそもっとも厳しく国民に要求されるべきものだった。こうした社会的背景に鑑みれば、ナイチンゲールについての物語は、戦争をも含んだ広義の国際外交の文脈の中で読み解かれるべきことがわかるのではないだろうか。フローレンス・ナイチンゲールという人物はたいへん魅力的で、戦前の日本において強い訴求力があっただけでなく、現在の私たちをも魅了する要素を数多く抱えている。それだけに「ナイチンゲール」という人物がどのような文脈で語られているのか、慎重に見極めていく必要があるだろう。
(おわり)
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松野 修 まつの・おさむ
愛知県立芸術大学教授。1952年生、愛知県生まれ。名古屋大学大学院教育学研究科博士課程、単位取得満期退学。博士(教育学)。主な主著に『近代日本の公民教育』名古屋大学出版会、1997 / フローレンス・ナイチンゲール著、松野修訳:英国陸軍の衛生状態、総合看護、23巻4号、1988 / 英国におけるナイチンゲール伝説の形成、愛知県立芸術大学紀要、41号、2012 / 日本における国際赤十字連盟とフローレンス・ナイチンゲール、愛知県立芸術大学紀要、42号、2013などがある。
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