フローレンス・ナイチンゲールは、戦前の国定修身教科書に登場した唯一の西洋の女性だったこともあって、その知名度は当時から抜群だった。ナイチンゲールの事績は「博愛」という徳目に関連づけられおり、教師用指導書ではナイチンゲールのことを教えるとき、赤十字社についても説明するように指示されていた。彼女は戦前の日本において赤十字社を象徴する存在だったのである。>> 関連記事「“破壊者”フローレンスの動機」
陸軍大臣が説いて聞かせた赤十字条約
日本へのフローレンス・ナイチンゲールの紹介は、看護婦養成機関の設立とともに広まった。筆者が知る限り、ナイチンゲールについての日本最初の記事は1886年(明治19年)の『女学雑誌』に収められた「京都看病婦学校設立趣旨書」の中にある。ナイチンゲールについての記事はそれから後、すぐに増加する。その背景には、日本政府が国際赤十字条約へ加盟したこと、それに伴って赤十字社が看護婦養成に本格的に乗り出したことがあった。
1886年7月、日本政府はジュネーブ条約(赤十字条約)注1 に加盟した。当時の陸軍大臣・大山はこの機会をとらえ、自ら筆を執って「赤十字條約解釈」(1887年/明治20年)を著し、現役の司令官や兵士だけでなく、有事の際には軍隊に戻る在郷軍人にまで条約の主旨を教え諭し、確実に守らせるよう指示した。大山が執筆した「赤十字條約解釈」には、難しい熟語には意味を解説するためのルビも振られている。
大山は職業的な訓練を受けている将校(司令官)だけでなく、徴兵されて戦争に参加することになる一般の兵士、つまり戦争のないときにはふつうの市民として生活している者たちにも、その主旨を徹底しようとした。この時代、陸軍大臣は教育者でもあったのだ。「赤十字條約解釈」の冒頭では、戦闘の勝敗が決し、敵が抗戦の意志を失えば攻撃を加えてはならないと、以下のように教えている(カッコ内はルビ)。注2
往昔(むかし)は戦争(せんそう)といえハ敵(てき)を殲(たを)し財産(さいさん)を掠(かす)めて尚(な)ほ飽(あ)くこと無(な)かしりか、人智(じんち)開(ひら)け法律(はうりつ)整(ととの)ふに随(したか)ひて戦争(せんそう)の主義(しゆぎ)も亦共(またとも)に改(あらた)まり、敵(てき)と雖(いへ)とも我(われ)に抗敵(はむかふ)の心(こころ)を減(けん)し、其力(そのちから)を失(うしな)へば即(すなわ)ち之(これ)を敵視(てきし)することなし。故(ゆへ)に彼 我(ひが)対戦(たいせん)するも、彼(かれ)に於(をい)て兵器(へいき)を棄(す)て亦(また)は抗敵(はむか)ふ状態(ありまさ)を止(や)むる時(とき)はすなはち之(これ)を敵(てき)と見做(みな)さゝるを法(はふ)とす。
〈その昔、戦争といえば敵をみな殺しにし、敵国の人びとの財産を盗み、それでも飽きたらずにやりたい放題の乱暴をはたらいた。しかし文明が進み法律が整備されるに従って、戦争のありかたも変わってきた。今ではたとえ敵であっても抵抗の意志をなくし、戦う能力を失った者は敵と見なしてはならない。たとえ戦闘中であっても兵器を捨て、降伏したときにはこれを敵として扱わないように。〉
本文では将兵に対して、掠奪をしたり、みだりに非戦闘員を襲ってはならないと戒め、負傷者は敵味方の別なく救護せよと、それぞれの条文に則して事細かに解説を加えている。
陸軍軍医総監が作成した赤十字条約のスライド教材
大山陸軍大臣が著した「赤十字條約解釈」はその後、軍隊内で使用される教本や社会人を対象に編纂された軍隊読本を通じて日本中に広がっていった。ただし「赤十字條約解釈」にはこの条約ができた背景、つまり赤十字条約は日本にとってどんな意味をもっているのか、この条約が結ばれるまでにはどんな議論があったのかなど、広い視野からの解説はなされていない。この解説は赤十字社自身による宣伝活動の中で行われた。
なかでも石黒忠悳(ただのり)の『赤十字幻燈演述』(1891年/明治24年)は、ナイチンゲールと赤十字社とを結びつけるために重要な役割を担った教材である。これは日本赤十字社の役員であり、陸軍軍医総監でもあった石黒が赤十字社活動を普及宣伝するために自ら原稿を著し、写真を選択し、画家に依頼してガラス絵(今でいうスライドのようなもの)を描かせたもので、日本で最初の視聴覚教材ともいわれている。
石黒は「明治二十三年の年末より演述按の稿を起し妻久賀子と謀て図按を撰み、遂に此幻燈演述を創めたり」と記している。夫人もこの教材の編集にあずかったのだ。初演は1891年7月14日、芝離宮で「皇后陛下及皇太子殿下」を前に披露された。この夜は石黒忠悳が口述し、久賀子夫人が幻灯機(スライド映写機)を操作した。夫婦そろってたいへんな熱の入れようである。
1893年(明治26年)の改訂版では、一番はじめに石黒忠悳自身の肖像を写し出し「拙者は日本赤十字社員石黒忠悳なり。〈中略〉今夕は此盛会の為に○○○○○君に演述の労を嘱託せり、諸君は○○○○○君の述べられるゝ処を余と思ひて聴き玉はんことを希望す」と口述するよう指示している。○○○○○の部分は実際の原稿にある記号である。石黒はこのようにして、自分以外の者でも講演者として壇上に立てるようにし、広く日本中で幻燈会を開催できるよう工夫を重ねた 注3 。
幻燈会では石黒忠悳の姿の次に、赤十字社を創設したアンリ・デュナン 注4 ではなく、フローレンス・ナイチンゲールの肖像を映す。そして、彼女の事跡から実質的な講演を始めている。
今を去ること三十八年前、西洋の千八百五十三年より六年まで四年に亘り仏英の二国合縦して魯国と戦ふたることあり。「クリミヤ」の戦是なり。此の戦は此百年以来に名高き大戦にて、加之気候悪しくして疫病流行し、病者は営舎・天幕・軍艦に充ち、死者は山野に横り、其惨状目も当てられざしりが、此時英国のフロレンス、ナイチンガールといへる貴嬢あり(第一号)※(第一号)とは、この箇所で “第一号の図を投影する”という指示。
デュナンについては「瑞国ヘンリーヂュナントといふ人、戦況視察の為に戦地を実践したるに、〈中略〉(第二号)「ソルフェリノ」紀念と題せる冊子を著し刊行して世に公にし、遂に救護会社の起さざるべからざる事を思ひ立ち」とあり、ナイチンゲールについては無論のこと、デュナンについても宗教的な観点からの説明は完全に払い去られている。
続く赤十字標章の由来についても、キリスト教との関連が積極的に否定されている。「白地赤十字の標章は全く瑞西国の国旗の裏を取りたるものにして、別に宗門等の関係に出たるものにあらず。」赤十字の旗はデュナンの故国スイスの国旗を元にして赤白を反転させたにすぎないのであって、キリスト教とは何の関係もないとの弁明である。
注1:武力紛争の際の傷病者、捕虜、文民の保護に関して規定した国際条約
注2:宮井悦之輔 編『軍人緊要 護国の礎』五車書楼刊、1889年(明治22年)より。この本は軍隊の諸規則をまとめたもので、軍人勅諭とその解説の後に日本赤十字社の規則が載っており、その後に大山による「赤十字條約解釈」が掲載されている。
注3:「赤十字幻燈」で使われた台本とガラス絵は、北野進『赤十字のふるさと』雄山閣刊、2003年に収載されている。
注4:ジャン・アンリ・デュナン(Jean Henri Dunant, 1828-1910)はスイスの実業家で、赤十字社を創設し、1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞した。
大山陸軍大臣による「赤十字條約解釈」を熟読するようにとの訓令「赤十字条約ノ儀ハ軍人軍属ニ在テ最緊要ノモノニ付、解釈ヲ容易ナラシムル為メ注釈ヲ加ヘ別冊頒布候条、遍ク熟読格守ス可シ」(写真提供:日本赤十字社)