第1回:ヴィクトリア女王の勅撰委員会報告書
人事の駆け引き
それはまさに派閥抗争、人事抗争以外の何ものでもない。
ナイチンゲールは1856年秋から翌年春にかけて、当時の陸軍大臣と、誰をヴィクトリア女王の「陸軍の衛生問題の改革」についての委員会の委員にするかという問題で、壮絶な駆け引きを行っていた。
1856年8月、「陸軍の衛生政策を改革したい」という強い信念を胸に抱いて、ナイチンゲールは帰国した。クリミアの戦地の悲惨な状況を体験した自分だからこそ、この改革ができるのだと信じていた。
帰国間もない9月21日、彼女は女王の別荘ともいえるスコットランドのバルモラル城を訪ね、ヴィクトリア女王と面会する。委員会設置の賛同を得るためである。同意した女王は当時の陸軍大臣フォックス・モール - ラムゼイと会うように彼女に伝える。爵位がパンミュア男爵(Lord Panmure)だったので、パンミュア卿、あるいはパンミュア陸軍大臣とよばれたその男は、実はひとクセのある人物だった。表面的にはナイチンゲールの改革に賛同する姿勢を見せながら、そのプロセスの引き延ばし、委員の人事へも介入してきた。
1857年5月5日に正式に委員会が発足するまで、ナイチンゲールとパンミュア陸相との間で人事をめぐった応酬が続いた。改革の成否は、ひとえにこの委員会の人事にかかっていたといえる。エドワード・クックは、このときの様子を、自らの著書『The Life of Florence Nightingale』で赤裸々に書き留めている。
委員の顔ぶれ
それでは、ナイチンゲールが苦労して勝ち得たその委員の顔ぶれを、実際の報告書の記載から見てみよう。そこには、シドニー・ハーバート以下9名の名前がある。
シドニー・ハーバート
政治家。ナイチンゲールが自分の将来を憂い、気分転換にと訪れた冬のローマで知り合った。ナイチンゲールのクリミアでの活躍の立役者であった彼は、「戦後」もナイチンゲールとともに、陸軍の衛生問題の改革の先頭に立つ。1859年6月に陸軍大臣に就任。しかしその激務心労のためか、1861年8月2日、50歳でこの世を去る。
オーガスタス・スタフォード
下院議員。1854年の議会の休会中に個人の資格で、ナイチンゲールが赴任したスクタリの陸軍病院を訪問。実態調査をしながら手伝いもする。帰国後、議会で現地の悲惨な状況やナイチンゲールの活躍を報告。残念なことに、1857年11月18日に46歳で亡くなる。
ヘンリー・ストークス
陸軍の将軍。現地に軍司令官として赴任し、ナイチンゲールのよき理解者、協力者となった。
ナイチンゲールは
なぜ「換気」に
こだわったのか
新型コロナウイルスの感染対策として「換気」の重要性がクローズアップされている。ナイチンゲールが繰り返し延べてきた「新鮮な空気」と健康保持についての主張にさまざまな角度から迫る。
岩田健太郎 他 著
日本看護協会出版会
四六判・104頁
定価(1,300円+税)