内閣情報部が編集制作した国策グラフ雑誌「寫眞週報」1938年6月8日・第17号の表紙より(日本赤十字看護大学蔵)。

   

 

 

人間同士が傷つけ殺し合うという最も非人間的な状況下で、看護師は自身の仕事とどう向き合うのか。有事を前提として発足した赤十字は、いま現在もこの問いを抱え続る人道組織です。日赤救護看護婦が体験した、かつての戦争を振り返ります。

(編集部)

 

危機感

 

近年、国際情勢の不安定化を背景に、憲法の改正や安全保障の枠組みの検討が行われている。国際協調を前提とした軍事協力、防衛力の強化とともに、国民に被害が及んだ場合などの事態を想定した体制づくり、訓練も行われるようになった。すでに2003年には国民の危機に際して、都道府県、市町村、医師会や日本赤十字社などの医療職の協力を義務づける国民保護法が成立した。万一にでもそのような事態が生じたとき、看護職としてどのように行動するかは無視できない問題になった。

 

一方で過去を振り返ると、日本の敗戦からすでに70年が過ぎた。しばらくはそのことについて触れようとしない時代の雰囲気があり、私たちの世代はあの戦争から学ぶべき教訓が何であったのかどころか、何が起こっていたのかさえ知らないという現実がある。

 

筆者は先の大戦における日本赤十字社の看護について研究してきた。戦時中、日本赤十字社救護看護婦(以下「日赤看護婦」とする)として活動された方々は現在すでに80歳代後半から90歳代となった。当時を知る貴重な手立てが失われてしまうこと、そして戦争が実体験ではなくイメージで語られる時代になりつつあることに、つよい危機感を抱いている。

 

このような背景のもと、本稿では先の戦争における日本赤十字社救護看護婦の看護について紹介し、戦争と看護にかかわるいくつかの論点について述べたい。

 

なお本稿では、当時の名称のまま看護婦という言葉を用いる。また従軍看護婦という呼称については戦後になって用いられるようになったものであり、日本赤十字社救護看護婦、陸軍看護婦、海軍看護婦などが正式な名称であった。

 

 

戦争で動員された看護婦

 

昭和12(1937)年に日中戦争が始まり、昭和16(1941)年には真珠湾攻撃を皮切りに、太平洋戦争に突入した。戦争は思った以上に長引き、日本は防衛しきれないほどに戦線を拡大した。政府は昭和20(1945)年に敗戦するまでの間、あらゆる手立てを講じて、国民を動員し、戦争を遂行しようとした。

 

看護にも多大な協力が求められた。日赤の看護婦しか記録は残っていないが、延べ3万3,156人が動員された。そのほとんどが10~20代の女性であった。戦時救護を主たる目的とする日赤の看護婦が動員されるのは当然であったが、それだけでは不足したため日赤以外の養成所を卒業した看護婦も、果ては高等女学校の卒業生や生徒までもが動員された。その正確な人数はわからない。

 

 

満州事変時、実際の戦闘場面ではなく、軍隊との共同訓練を撮影したものと思われる(1931年9月)。Bundesarchiv, Bild 102-12301 / CC-BY-SA 3.0

 

 

看護婦の派遣地

 

図1は昭和20(1945)年時点における日本赤十字社救護班の派遣先である。北は樺太から南はジャワまで、また東はニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル、西はビルマ(現ミャンマー)までと広い範囲にわたった。内地が666個班と最も多く、続いて中華民国の114個班、満州の55個班であった。

 

 

図1 救護班の派遣状況(数字は班数/1945年時点)

 

 

当時の軍隊においては、前線で傷病兵が発生した場合、まず隊付の包帯所で応急処置が行われ、必要に応じて前線の野戦病院から中間施設である兵站(へいたん)病院、最後方の陸軍病院に送られた。傷病兵はなるべく前線の野戦病院で回復させ、原隊復帰させるが、それが難しい場合には兵站病院、さらに特殊な治療が必要な場合は陸軍病院に送られるシステムになっていた。

 

看護婦には、日赤の看護婦、陸海軍の看護婦、そして軍隊に属さず、個人や集団で救護に参加した看護婦もいた。看護婦は女性であるため、特別に認められた場合を除いては前線では勤務しないことになっていた。日赤の看護婦は原則として兵站病院までの衛生施設で勤務すること、陸海軍の看護婦は後方の陸海軍病院で勤務することが定められていた。それより前線に設けられる野戦病院は軍の衛生部隊が担当した。

 

戦況が有利に働いている間は、看護婦は比較的安全に活動できた。しかし後方であっても決して安全とは言えなかった。満州の一部の地域では、日本軍に抵抗する現地民による来襲があり、看護婦は病院の外には出られなかった。南方のフィリピンやビルマにおいては、日本軍が侵攻した当初から連合軍による空爆が行われていた。戦況が悪化するにつれ病院も爆撃の対象となり、看護婦は患者とともに防空壕や洞窟へ避難する日々が続いた。最後は看護婦も敗残兵とともに飢餓とマラリアに苦しみながら、ジャングルのなか白骨街道を行軍した。

 

国内でも敗戦が近づくにつれ陸海軍病院が空襲による被害を受けた。避難中の防空壕が爆撃を受け、全員が死亡した救護班がある。沖縄戦では戦闘の真っ只中に、ひめゆり学徒隊などが動員され、多数の犠牲者を出した。広島や長崎に投下された原爆で亡くなった看護婦や看護婦生徒もいた。

 

 

動員のための方略

 

戦時における看護の需要を満たすため、多くの若い女性が看護婦として動員された。それまで日本赤十字社が準備する救護班の数は、陸海軍との協議によって決められていた。救護班は、班長である医師1名、救護看護婦長1、救護看護婦20名、書記、使丁各1名で構成された。ただし戦中は医師不足のため、班長は書記もしくは救護看護婦長が務めた。他に病院船、病院列車のための救護班組織があり、それぞれ人数構成は異なった。

 

昭和12(1937)年の日中戦争開始時における日赤救護班の準備数は117個班であった。その後、戦時の需要に応じてつぎつぎと救護班を編成することになり、最終的にはその数は960個班に達した。なんと当初の準備数の8倍以上を編成して派遣したことになる。

 

看護婦の不足を補うために日赤が採った方略はいくかある。まず従来の救護看護婦を「甲種」救護看護婦とし、新たに「乙種」救護看護婦と「臨時」救護看護婦を設けた。甲種救護看護婦は、高等女学校を卒業した年齢17歳以上25歳までの者を生徒の採用条件とし、3年間の教育課程を修了した者とした。

 

 

救護員は、日本赤十字社より救護班編成の通知を受けた支部から写真のような召集状を受け取り、国内をはじめ中国大陸、東南アジア、南太平洋諸島などの軍病院、病院船などに派遣された(日本赤十字看護大学蔵)。

 

 

新たに導入された乙種救護看護婦は、高等小学校卒業または高等女学校2年以上の課程を修了した年齢14歳以上20歳までの者を生徒の採用条件とし、2年の教育課程を修了した者とした。臨時救護看護婦は、日赤以外の養成所を卒業した後、日赤病院で3か月の講習を受けた者とした。看護婦不足を補うために救護看護婦生徒の就学期間の短縮(甲種3年課程を2年で実施)や繰り上げ卒業も行われた。

 

内地の陸軍病院や海軍病院によって採用された者は、陸軍看護婦、海軍看護婦と呼ばれた。これらの軍病院にはさまざまな養成所を卒業した看護婦が採用され、勤務したと考えられる。彼女たちは転属というかたちで外地の軍病院にも派遣された。海軍では大正8(1919)年から海軍看護婦の養成を行っており、陸軍も戦争末期の昭和19(1944)年10月より陸軍看護婦の養成を開始した。

 

卒業した看護婦が次々と動員されたため、国内の病院においては看護婦生徒が主力となり看護を担っていた。それでも看護婦は不足し、昭和18(1943)年には一定以上看護を学んだ高等女学校卒業生に、無試験で看護婦免許を与えることにした。このなかに戦場となった沖縄の那覇女子師範女学校と第一高等女学校の卒業生がいる。彼女らはひめゆり学徒隊として動員され、多くが戦死あるいは自決に追い込まれた。

 

戦時における急激な医療の需要は、看護の質の明らかな低下をもたらした。看護婦はやがて、若くて経験が少ない者ばかりとなった。

 

 

日支事変に際し、神社の祠の前で出発の水杯を交わす第2救護班要員。現在の日本赤十字社医療センター(渋谷区広尾)にあった看護婦教養所の屋上にて。(1937年8月、日本赤十字看護大学蔵)

 

 

   

 

川原 由佳里  かわはら・ゆかり

日本赤十字看護大学准教授。1998年日本赤十字看護大学大学院看護学研究科博士後期課程修了、博士号(看護学)取得。2011年國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了、博士号(歴史学)取得。著書(共著)に、第二次大戦で救護活動を行った看護婦(当時)の体験を記録した『戦争と看護婦』(2016年、国書刊行会)などがある。

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