image: Center for Disease Control and Prevention
経済停止による
大気汚染の緩和
それでは、コロナ問題が生んだ、新しい社会構造の転換への可能性を見ていきましょう。
周知のとおり、これも皮肉なことに、各国の経済活動が衰退することでCO2濃度の増加ペースが2019年12月から2020年3月にかけて急減(半減)したり(TV朝日ニュース記事、2020年4月13日公開記事)、この間に中国の大気汚染が緩和されたと言われています(タチヤナ、2020年3月25日公開記事)。また、後者の記事には、「WHOによると、大気汚染で年間700万人が亡くなっている」「大気汚染は脳卒中、肺疾患、急性呼吸器感染症などの疾患を誘発したり、悪化させたりするため、世界中でさらに420万件の早期死亡が大気汚染に関連している」とも記されています(WHOのHP 「Air pollution」より)。
であれば、いささか単純な見立てかもしれませんが、コロナウイルスによる死者が増える一方で、経済減退が続けば続くほど、むしろ大気汚染による死者は減っていくという予想が立ってきます。
別の事例をあげれば、過去、2016年ロシアにて、温暖化の影響によって永久凍土が溶けだして露わになったトナカイの死骸から、炭疽菌の感染者が出たことがありました。このアクシデントにみられるように、今後、温暖化が、図らずとも凍土に眠った病原体を今の世に放ってしまう可能性があります。もしくは、地球温暖化が進むことで、現在アフリカを中心に起こっているマラリアがより広範囲に広がる可能性があります。専門家の間では意見が分かれているようですが、日本もその例外ではないかもしれません。今回の経済停止はこうした温暖化の進行を遅らせ、新型コロナ以外の感染症によるパンデミックを抑制する可能性もあります。
資本主義という仕組みは、右肩上がりに経済的利益を上げていくこと(自己利益獲得)を至上命題とするがゆえに、「人と自然の分断」(環境破壊)と、「人と人との分断」(コミュニティや助け合いの関係の破壊)を招いてきました。自然は、新たな貨幣を得るための無尽蔵の金のなる木であり、他者を自分の成長のための道具とみなすシステムを拡げてきました。つまり、資本制下においては、自然環境や他者は、己が利益を上げるためのあくまで道具(手段)の地位に置かれていました。むろん、互助活動も自然保全も資本制下でも存在するのですが、副次的な地位に置かれてしまいます。
確かに、ウイルスは、人間のさまざまな(特に経済活動と移動の)自由を破壊します。しかしながら、人間(貨幣への欲望)もまた自然を破壊し、そして自分たち自身をも破壊してきたとも言えます。
奇しくも、新型コロナ対策による経済活動の減退により、結果的に環境汚染が改善されるというこの「現実の」現象には、今までの生活が突如としてできなくなるという、人類の苦しみの反面、世界的な希望を見出すことができます。「現実にそれが起きた」というグローバルな経験を人類がした、歴史に刻んだことが大事なのです。すぐには継続できなくとも、この歴史的事実を我々は、今後、何かの時に思い出し、拡張していくことができます。
ただし、このコロナ禍における大気汚染の緩和とは、あくまで人が望まない中で起きた思いがけない結果であって、人間の能動性がそこには欠けてしまっています。従来の欲望や経済循環の仕組みの下、すぐに「そういえばそんなことあったよね」と消え去ってしまうような、非常にか弱い芽にすぎないものです。
したがって、多くの国が経済循環に困窮すれば、元の消費を回復することが第一優先となるので、余計に自然環境のことなど後回しになる可能性もあります。
能動性の欠如は、太陽光パネルの問題からもみてとれます。大気汚染が一時的に改善される一方で、今回のコロナ問題によって、太陽光パネルの開発や生産が滞り、長期的に見れば、かえって環境汚染が進む可能性も指摘されています(例えば、大串、2020年3月30日記事)。太陽光発電を含む自然エネルギー関連の技術開発は、一見環境保全に直結しているようですが、これ自体が少なからず、経済活動の一つです。
例えば、コロナ問題以前にあった話として、静岡県の函南町軽井沢では、太陽光パネル(メガソーラー)を設置する広大な敷地を確保するために、自然環境を伐採するという本末転倒な問題が起き、地元の人たちの間で反対運動が行われていました。まさに、エコとされる取り組みが、結局は、従来の経済活動の土台の上に置かれた生産活動にすぎないことを象徴しています。
よって、「技術開発による環境問題の解決」と「経済活動」との「両輪を動かす」という、よくあるご都合主義的発想を、もう少し前提から見直していく必要がありそうです。結局、既存の資本制下では、いかにエコを唱えようとも、技術開発は、自然との循環関係の構築ではなく、むしろ、人間の経済活動の発展の方に飲みこまれてしまいがちだからです。
もちろん、太陽光発電含む自然エネルギーの技術が、即、そうだということではありません。例えば、神奈川県相模原市の旧藤野町では、3.11の大震災と原発事故を契機に、太陽光発電を地域のコミュニティ形成と自然との共生に生かす、藤野電力という地元の取り組みが行われました。彼らは、経済的利益の手段として、この技術を用いたのではなく、むしろ、人と人、人と自然の共生、協調関係を醸成していくためにこれを用いたのでした。
技術を、いかなる動機・目的、人と人/人と自然の関係性、すなわち状況(土台)に置いていくかが重要なのです。この意味で、両輪論ではなくむしろ、前言のように、その車が走る状況や方向性こそ問題にすべきです。すると今度は、走るものがそもそも車ではなくなってくるかもしれません(両輪論のように「車ありき」の議論ではなくなるから)。状況(土台)を変えることは、その上を走るもの自体も変えていくことにつながるのです。
要するに、私たちは、コロナ問題によって思いがけず見出した、このまだ「か弱いが、可能性に満ちた芽(赤子)」を力強く育てていくためにはどうしたらよいかを、真剣に考えていく必要性に直面しているといえます。
以上のような、新型コロナウイルスへの望まざる対応による環境汚染の改善という皮肉な事態が、新しい世界システムへの萌芽となりうる第一の可能性だとすれば、第二の可能性は、ウイルスという非人間的存在物を、世界各国が乗り越えるべき共通の「対象」として認識したという点です。
対人間と対ウイルス
第二の可能性(萌芽)を述べます。これは、結論から述べれば、コロナ問題は、対人間ではなく、対ウイルスであるがゆえに、世界各地のさまざまな連帯を生み出す可能性でもあるということです。
まず、新型コロナウイルスという存在は、「グローバルかつ逃避不能な対象」と言える存在です。以前に、同じく人間の力が及ばず逃避できない厄災として、台風や地震のような自然災害があると述べました。しかし、これらの自然災害は、ほとんどの場合、特定の国や地域に限定されます。これに対し、新型コロナは、人間が生んだグローバリゼーションの仕組みと結びつくことで(人が作ったネットワークに紛れ込むことで)、世界各地に急速に遍在する存在として膨れ上がりました。
また、同じくグローバルかつ逃れられない問題として既述の温暖化(環境問題)があります。一部に即時に対応の必要な喫緊の地域がある一方で、それ以外の地域では、なんとなく「先送り」できてしまうものでした。これに対し、新型コロナはどう足掻いても先送りできない。言い換えれば、ほぼ人類全体が、「今すぐ」に協力して乗り越えるべき「共通の対象」を(仮に一時的であろうとも)共有したといえます。これは、グローバリゼーションがもたらした厄災である反面、グローバリゼーションがもたらした「グローバルな共通の経験(可能性)」といえます。
もう一つ、同じく「グローバルかつ喫緊の共通の経験(苦難)」としては、世界戦争の勃発があります。しかしこれは敵対する人間同士の争い(対象が同じ人間)であって、終戦後も根深い遺恨を民族間、国家間に残します。これに対し、新型コロナウイルスは、非人間的存在という点が異なります。コロナ問題は対人間の戦争ではなく、非人間との戦争※注、つまり非人間への否応なしの着目を促すものです。
※注:戦争という比喩には問題もある一方で,類似点も多い。例えば,対コロナにおいては,軍人や自衛官ではなく,医療関係者が第一線で自国民の命を守る戦士になり,民からの応援を一身に受ける。また,防空壕や城壁ではなく,自宅が籠城する空間となる。さらに,非常事態のもと,国家権力も強化されていく。ただしもちろん,医療関係者は人の治癒とケアを施す(生命を守る)存在であって,人間を傷つけてしまう本当の戦争とは相違する。
このように、人間ではなく、非人間が対象であるからこそ、国家を超えた人間同士の連帯をもたらす可能性があります。人間同士なら、遺恨は必ずと言っていいほど残してしまうが、対ウイルスであれば人類共通の敵として共有することができる。
日常生活において、共通の敵が出現すれば、普段、仲のよくなかった人たち同士が協力するようになることはしばしば耳にする話かと思います。それと同様、対ウイルスへの視線を共有することで、普段に比べ、仲のよくない民族や国同士が協働「しやすい」状況が生まれます。ただし、あくまで普段より「しやすい」ということであって、単に共通の敵がいるという条件だけでは、人間同士も必ずそうなるとは限らないのと同様、国家間も必ずそうなるとは限りません。
したがって、人間同士が国境を越えて連帯する方向にかなり意識的にアクセルを踏む必要があります。当然、ここで、従来の「したたかな国家」「利害関係(自己利益)」が障壁になりますから、現実の困難はあります。国家や民族間の文化差や考え方の相違が、さまざまなすれ違いも生むでしょう。日常生活の中での夫婦、友人、先輩後輩同士といったごく身近な関係であっても、人間関係というのはそもそもすれ違うものだからです。国家同士という次元は、我々、民にはマクロかつ縁遠いものに見えますが、実は、私たちのきわめて日常的な人と人、人とモノの関係性の延長線上にあります。
にもかかわらず、コロナ問題によって、普段よりも国境を越えて連帯しやすい状況が生まれているのも確かであり、これをそのチャンスと捉えるか否かが、今後の世界情勢を左右します。
「すれ違っても良いのだ」、「連帯などきれいごとだ」と、それらを前提として関わるのでは、関係は崩壊しますが、さまざまなすれ違いを不可避なものとして伴いながらも、どうにか目線の先を共有しようと努力を続け、それを相互に乗り越えていこうと踏みとどまるからこそ、連帯の可能性は生まれます。
どうにか生じる連帯の中、互いの差異は、父母の交わりにより生まれる子のように、互いの差異(父母の遺伝子=国家間、民族間の特異性)が結合することによって、新たな差異(子=地球、世界システム)が生まれてくるはずです。その新たな差異(子)は、現実的な多くの苦難とずっしりとした重みをもつ愛──決してきれいごとでも、特別なものでも、大きなものでも、単なる自己犠牲でもなく、きわめて身近で日常的で小さな感情であり、知性であり、関係性そのもの──を育てていくことを通して、互いに決裂することなく、前向きに育っていきます。
このように新型コロナウイルスは、「グローバルで」「逃避不可能な」「非人間」という三つの特徴を持つ対象であるがゆえに、私たちには国境を超えた連帯・協働を築いていくチャンスが訪れているといえます。
世界共和国へ
ところで、国家を超えた連帯の例として、哲学者の柄谷行人は、第一世界大戦、第二次世界大戦によって、国際連盟、国際連合がそれぞれ生まれたことをあげています。また、柄谷は、次の第三次世界大戦が起こることで──決して起こしてはならないものだ、とも言っています──、資本主義の負を乗り越える世界共和国が、つまり、新しい世界システムの創出が促されるであろうと予想しています。
もちろん、柄谷は、「人間同士の戦争」のことを述べているわけですが、今回のコロナ戦争を、仮に第三次世界大戦に置き換えてみるならば、柄谷の主張とも重なってきます。つまり、対コロナの世界戦争が、世界共和国の創造を促進するかもしれません。
それゆえ、コロナ戦争を、既述の米中対立のような人間同士の戦争に決して移行させていくようなことはあってはなりません。コロナ戦争を人間同士の世界大戦への布石としてはならないのです。むしろ、世界は同時に、Covid-19以外にも今後発祥していくであろう新興感染症も広く含め、ウイルスのような非人間を──もっといえば、「生物と無生物の境界物」を、あるいは、「人間と自然物の共生関係」を、つまりは、「人間と自然の間の接点(関係性)」を──対象化せねばなりません。
人間同士の争いや利害はこじれやすいのですが、非人間だからこそ、世界はより利害を超えて連帯(結束)しやすいはずです。これを、これまでの社会情勢の慣性に乗じたまま、対人間の問題へと安易に転化させてはならないのです。
さらに、柄谷は、第三次世界大戦による新しい世界システムの創造とは異なる道として、「世界が同時に」「武器を放棄する」ことが世界共和国への道だとも述べています。それによって世界戦争を回避できると。ただ、このことが容易ではないことは多くの人に想像されると思われます。
しかしここで着目すべき点として、同じく本来ならとうてい容易なことではないにもかかわらず、コロナ問題によって「現に起こった」とんでもないことが一つあります。それは、世界がほぼ同時期に「右肩上がりの経済成長を放棄した(正確には、各国ないし各地域が各々の期間に一時的に減速させた)」ことです。
つまり、まず武器ではなく、かつ、嫌々だったとしても、「経済成長の放棄」が世界各地で同時に起こった──経済が仮に長期的に減退するならば、軍備にも影響が出てきますから、あながち柄谷の言うことも長い目で見れば、荒唐無稽ではなくなる可能性もわずかながら出てきます──。
この「世界同時多発的な経済成長の停止」を、世界的連帯の萌芽として考えること、あるいはそこにつなげていくことはできないでしょうか。
国際的な連帯の萌芽は、下記からも見出せます。
2020年4月は、各国、各地域の判断で、経済活動を停止している状態でした。5月に入り、徐々に外出制限が解除され、経済活動が再開されていきました。しかし、例えば、当初の日本の7都市緊急事態宣言のように、都市部のみ緊急事態宣言に対応した自粛をやっても、今度は地方への流出や、都市部が落ち着いたころの地方から都市への再流入が起こることが容易に起こりますから、感染拡大は再び起こる可能性は高くなります。逆の都市から地方への流入もしかりです。こうしたこともあって、全国一律の外出自粛にもつながりました。
これは国際的にも言えます。たとえ一国で拡大を抑え込んだとしても、タイムラグがあって拡大した他国からまた流入するリスクが残るからです。アフリカや南米に感染者が残れば、どこからかの経由で再び、流入するリスクがあります。
一地域、一国内でやっても意味がない、ウイルスの変異が発生してしまった、このままより長期にわたって効果的なワクチンや特効薬が開発されない、時間がかかるとなれば、前篇の冒頭で述べたように、「経済活動を犠牲にしてでも、全世界一斉(同時)に、一定期間、人との物理的な交流を断つ」という(荒唐無稽な)選択肢がよもや現実味を帯びてくるかもしれません。
もちろん、現在までも、各国の判断で外出制限が課され、間接的に、世界同時多発的な経済停止(減速)ということがグローバルに実施されました。これに限らない一般的な話として、たとえ目に見える直接的な連帯や交流でなくとも、意図せず、大気汚染が止まった先の事例のように、気付けば連帯してしまっているようなケースもあります。これも(間接的な)連帯といえるものです。この類の連帯の可能性も当然にして注目すべきですが、これらは国際的な共同決定(意思)の下で行われたものではなく、あくまでも各国の判断によるものです。
結果、大気汚染緩和も非意図的な一時的なものすぎず、経済活動制限への民の蓄積されたフラストレーションから、すぐに元の消費主義にのまれてしまうという弱点があります。
したがって、一か八かの賭けかもしれませんが、国際的な合意と、より能動的な民全体の意思の下で、「世界同時的な経済停止」という措置を試みることが、それまでとは違う事柄を引き起こしていく可能性があります。
いうなれば(通信によるやり取りや、三密を避け社会的距離を置いたやり取り以外は)「交流しないことの連帯」、つまりは「ローカルに(一人ひとりが)交流しないというグローバルな(世界同時の)連帯ないし交流」という逆説的(ある種これも矛盾した)選択肢をより積極的に選ぶということです。
別の言い方をすれば、「経済を回して競争するのを一回ちょっと緩やかにしよう。みんなで一斉に立ち止まってみましょう」の世界です。私たちが、目を閉じて一斉に「瞑想」する機会といえます。あえて何も動かないこと、空っぽにすること。それによって、動き続けるのでは起こらなかった何かが、起こっていくかもしれない。
普段と同じことをやっていても同じことしか起こらないものですが、あえて普段と異なることをグローバルな規模でネットワーク的に実行することで(「動かないこと」を「やる」ことで)、思いがけず見えてくるものもあるはずです。