特集:ナイチンゲールの越境 ──[ジェンダー]

©2020 Taeko Hagino

文・西尾美登挿画・はぎのたえこ

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最終話 桜のカーディガン [連載小説]ケアメンたろう

母さんがそのパンツを干すなら、俺は洗濯物を干さなくていいんだ。で、母さんがパンツを干さないなら、俺が洗濯物を干すんだ──(本文より)

 

   

 

噂を確かめる

 

母親が退院後初めての日曜日に、練習試合を終えた太郎と慧人が家に帰ってきた。

 

「何か食べさせて。腹減った」

 

桜の花びらが散るピンク色のカーディガンを羽織り、化粧をしていた母親は、ソファに座ってテレビを見ていたようだが、あわててカーディガンを脱ぎ、少し体を引きずりながらキッチンに立った。

 

ラーメンをつくるとき、母親はまだ鍋を持つことができない。だから湯切りや鍋の片づけは太郎が行った。少し寒いという母親に、脱いだカーディガンを着たら?と勧めるが、この季節には合っていない柄のカーディガンを、客の前では着ることはできないという。

 

「は? 関係なくね?」

 

「たとえばクリスマスツリーの柄を春に着ていたらおかしいやろ。それと一緒よ」

 

と母親は言った。

 

母親らしく、野菜を多く食べてねと言いながらつくられたラーメンは、モヤシが多くてこれはラーメンというよりもモヤシ麺だろうと笑いながら、慧人と2人で食べていると、母親が出かけてくるという。

 

「誰かと会うと?」

 

「うん」

 

「どこに行くと?」

 

「上司とこれからのこと話さんといけんのよ」

 

「今日、日曜やんか」

 

「人がいない日のほうが、ゆっくり話せるでしょ。人事のこと、今から来年度に向けて募集をする関係があるから、早めに話しておいたほうがいいんよ」

 

「学校にいくん? 上司の人はお母さんの味方なん?」

 

「うん、たぶんね。学科長はお母さんの味方だから辞めないでいいんじゃないかって言ってくれてる」。

 

「……」

 

「あ、それに通帳の記帳、しなきゃいけんのよ」

 

「は? 記帳? 俺がいくよ」

 

「あのね、これから記帳なんかいちいち太郎に頼めんのやから、これもリハビリなんよ。ハチ、クー、出かけてくるよ」

 

そういって母親は出て行く。

 

太郎と慧人は顔を見合わせ、さて、と頷いた。

 

母親の勤める学科棟の左手奥の3階で、学科長が太郎の母親と会うために準備をしていた。光が灯っている部屋は1つだけである。母親を職場に引き止めるというのは本当のことらしく、教授会ではすでに継続して働ける環境をつくることで意見が一致していると、慧人の父親が教えてくれた。

 

……敵もいるが、理解者も仲間もいるということか。

 

実際のところは、太郎の母親が誰かに怪我を負わされたという噂が立っていて、“被害者が辞め加害者が辞めない組織だ”といったことまで囁かれているらしい。その噂が外部にも広がると受験者の数にも影響がでる恐れがあるため、このままで良いはずがないと慧人の父親が学科長へ耳打ちしたのだと、太郎はずっと後になって知ることになる。

 

学科長との約束の時間の10分前になった。母親は、自分の部屋である4階の教員室13を出た。学科長の階の男子トイレの入り口に、息を潜めた太郎と慧人が潜んでいる。トイレから自室に戻る学科長の不安定な靴音が鳴り響いている。

 

右に左にと大きく揺れる影の後ろから「学科長」と呼ぶ声が聞こえた。太郎がその方向を向くと、そこにはあの鋭い目つきの女が立っていた。

 

「もしかして、復帰されるんですか?」

 

と、女は太郎の母親の名前を出し、丁寧な口調でそう尋ねた。

 

「どうしてそういうことを聞くのです?  まだわかりませんよ。気になることがあるの?」と学科長。

 

「私……あの先生が復帰されるなら、辞めます」

 

会話は太郎たちのいる場所までしっかりと響いている。……やっぱり、職場の人間関係で母さんは戦っていたんだな。

 

太郎は会話の一言一句残しておくために、携帯の録音をオンにした。

 

「あの人がいるなら、私が上にあがるポストはありませんから」

 

鋭い目つきの女は冷たく言い放つ。数秒のちにバタンと大きく扉を閉める音が学科棟に鳴り響いた。

 

急な雨で、ラグビーの練習は中止になった。いつもよりも泥だらけになった部員は、適当に散って家路を急ぐ。自転車置き場でツッツーと慧人、太郎は少しの間雨を凌ごうと立っている。

 

大粒の雨音が、ひどく自転車置き場の屋根を叩く。

 

「なぁ、思わないか?」

 

ツッツーが空を見ながら、慧人と太郎に問う。

 

「ん?」

 

「何かを手放しながら、人間は生きてるんだよな」

 

「どしたん? 突然」

 

「ばあちゃん、昨日心不全で入院したんだ」

 

「ツッツーのばあちゃんが介護認定されたなら、今度は俺がいろいろと教えるよ」

 

「あぁ」

 

「あ、俺さ」

 

慧人に大学への推薦の話がきたらしい。ほぼ東京行きが決定したと言った。

 

「やっと父親が幸せになれる」

 

「慧人、澤田はどこにも行かないんだぞ」。

 

クスクスと笑いながら、ツッツーと太郎がからかう。

 

「うん、わかっとるよ。でも何も手放さず犠牲にするものがなければ、幸せって来ない気がするんだ」

 

「そうか。それなら、うちの母さんはいろいろ犠牲にしてるだろうから、幸せがくるな。俺にも来るよな」

 

太郎の言葉に2人は頷いた。

 

「そうだな。さぁ、俺のばあちゃんも、がんばれよー」

 

そう叫んだツッツーは、東京に行ってここに帰ってくると言いながら、自分が離れた後、曾祖母さんがいつまで生きるか心配だと頭を抱えた。

 

「太郎はこれからどうするん?」

 

「まだよくわからん。だから東京の大学も、この土地の大学も両方受験するよ」

 


手放すことで得るもの

 

「なぁ、母さん」

 

「ん?」

 

「何かを手放しながら、人間は生きてるんだよな」

 

「どしたん?」

 

目を丸くして太郎の瞳を覗き込む。

 

「いや、別に」

 

少し痺れるという手で、母さんはベランダでオレンジ色のパンツとブラを干している。

 

「母さんがそのパンツを干すなら、俺は洗濯物を干さなくていいんだ。で、母さんがパンツを干さないなら、俺が洗濯物を干すんだ」

 

「何それ?」

 

太郎は、昼寝しているハチとクーに聞いてみる。

 

「お前たちは幸せかい?」

 

ハチとクーは、少し目を開けたが、面倒そうに瞳を閉じた。母さんが入院していた間はべったりと太郎の足元にまとわり着いていたくせに、帰ってきたとたんに太郎に甘えなくなった。なんてヤツらだ。

 

10キロの鉄アレーを両手に持ち上腕筋を鍛えながら太郎が「何かを得れば何かを失う」と呟いていると、「筋肉よりも、頭を鍛えなさい」と母親が言った。

 

「あぁ」

 

と太郎。もう以前のように舌うちはしない。

 

「母さん」

 

「ん?」

 

「父さん、いつか帰ってくるといいな」

 

「そうね」

 

戻ってきたときに、あまり母さんの姿かたちが変わっていないほうがいいよ、という言葉を太郎は飲み込んだ。

 

変わらないほうがいいもの。それは、乙女のパンツとブラジャー。母さんの働き方。その母親を支えながら、僕はこの土地で生きていくのだろうか。

 

この土地を捨ててまでして何かを得るのだろうか。どこの土地で生きようとも、僕らの未来は明るいと信じたい。

 

「母さん、そのパンツもブラジャーもさ、結構いいと思うよ」

 

「あんた、小さい頃から、これがいいんじゃない? って、下着を選んでくれとったもんね。きまってピンクや赤やオレンジのやったんよ」

 

「何?  それ。母さんの趣味じゃなくって俺の趣味?」

 

「そうよ」

 

頭がくらくらした。

 

おわり

 

  

>> 前回まで/連載のはじめに

 

  

君に触れながら

  

西尾美登里

 

1年にわたって「ケアメンたろう」を最後まで読んでいただき心から感謝します。

 

男が女を・子が親を介護することは、在宅医療が推進されるようになった現在、いつ誰がその立場になっても不思議ありません。しかし、そのような社会状況において、男性が家庭で介護を担うことへの認知や理解はまだまだ進んでいるとは言えません。そこで、この問題を誰もが考えるための一つのきっかけにと思い、「ケアメンたろう」を創り出してみました。

 

受験と部活の両立をする一人っ子の高校生・太郎にとって、生活と親の介護が突然のしかかったことはまさに晴天の霹靂でしたが、心が折れそうになる中にも太郎には頼れる仲間たちがいました。そのことが太郎を支え、困難の中でともに悩み、互いに成長していくことができました。

 

「心の強さ」というものは、失敗や挫折に対しへこたれないことに加え、傷つきネガティブな感情にとらわれる経験があったとしてもモチベーションや感情を回復できるという、この二つの力によって成立しています。それらは生まれもったものでなく、周囲のサポートや親の養育のあり方が関わっているそうです※1

 

さまざまな選択肢において「自己決定」をすることが大事だと言われますが、その自己決定ができないような不可抗力に遭遇した際に、それでも介護者本人が立ち上がるためには、この連載でもご紹介した種々の保険制度を利用し、経済的負担や身体的な介護力を軽減することに加えて、何よりも周囲による理解と支援がとても大切なのです。

 

そのことを表現するために、この物語では「下着」を一つの重要なモチーフにしました。介護が必要になっても、太郎の母にとってブラジャーやパンツの色はオレンジやピンク、そして赤でした。女性は何歳になっても、そしてたとえどんなに身体が不自由になっても、自身の好みや自分らしさ、あるいは「女らしさ」、その場らしさを大切にしたいと多くの人が思うものです。

 

季節に合わせた模様や、大切な行事だからこそふさわし絵柄を、その人が身に着けるものとして日々の介護の中でどこまで考慮することができるでしょうか。それらは女性にとっての何気ない日常の身のこなしの一部であり、とても個人的な気持ちに沿うものだからこそ、大切な意味を持っています。

 

私が取り組んできた活動や研究を通して見るケアメンの方々の中には、自身の妻によく触れられる男性が複数いらっしゃいます。彼らは共通して笑顔が素敵で、何より妻である彼女たちの誰もが美しい。

 

感銘を受けた私は、ストレスを計測する器械と質問紙を使用したある研究を行いました。その結果、母親に息子が触れたときには息子の精神的ストレスが軽減し、妻に夫が触れると夫の自律神経と身体・精神ストレスが軽減される傾向が見られました。つまり、恋人やパートナーといった大切な人に触れることは(触れられる側にだけではなく)、生理学的にも良い影響があるかもしれないのです。

 

 柔肌の 熱き血潮に 触れもみで

 寂しからずや 道を説く君

 

この与謝野晶子の歌からは、私には想いを寄せる異性に触れてほしい女性の気持ちが伝わってきます。介護生活にも、夫婦やパートナーとの豊かな情的交流があるのだということを知ってほしいと思います。

 

※1 大上渉 他:若者の心の強さとその効果的支援に関する心理学的研究. 福岡大学研究部論集. 2016. pp66-72.

※2 西尾美登里, 小林光恵, 他:自立神経測による妻へのフェイシャルケア効果の基礎的研究. FREGRANCE JOURNAL, 4(1), 2020, 55-61.

 

 

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>> 前回まで/連載のはじめに

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