「獅子之図
『紅毛雑話(1787年より

Part1 近代病院建築事始め──新しい内容と形式

第1話

病院建築の新しい内容

[近代西洋式病院の始まり]

「日本の近代病院建築」の第1回目は、西洋から導入された近代病院建築が、それまでの伝統的な医療施設とはどのように違うものだったか、どのような新しい内容をもつものだったかについてお話しします。

 

日本の最初の近代西洋式病院とされるのは「長崎養生所」です。しかし、もちろん、それまでの日本に医療施設がまったくなかったわけではありません。

 

江戸の医療施「小石川養生所」

 

前回「病院」という言葉が日本で初めて使われたのは、森島中良の『紅毛雑話』においてだったとお話ししました。森島は「病院」を紹介する際、日本伝来の「施薬院」に似通ったものであると言い、小石川養生所をその「名残」として想起しています。施薬院は貧しい病人に施薬・施療を行った医療施設のことで、奈良時代の光明皇后★1が設立したものが代表的なもののようです。小石川養生所も、貧しい病人のために江戸時代に設立された医療施設でしたので、森島は小石川養生所を施薬院の名残だと言っているわけです。

 

森島の時代の人々にとっては、病院とは「施薬院」とか「小石川養生所」に似通ったものだと言われると、「なるほどそうか」と納得できたのだとわかります。つまり、日本にも──当然ですが──病院のような医療施設が存在したということです。そこでまず、小石川養生所について見ておきましょう。

 

小石川養生所★2は幕府が1722(享保7)年に設立した医療施設です。江戸の町医であった小川笙船★3が、目安箱に投書した建白がきっかけだったとされています。目安箱はその前年に将軍・徳川吉宗が庶民の声を聴くために設置したもの。そうして早速現れた成果が医療施設に関するものだったとは、ちょっといい話ですね。

 

養生所が設けられた場所は、幕府直営の薬園である小石川薬園内でした。現在は東京大学附属の小石川植物園となっているところです。提供された医療は、言うまでもなく漢方。当時としてはめずらしく、患者の入院を専門とする医療施設でした。養生所が貧困で身寄りのない患者への施療を目的とする医療施設だったことから、入院させることを必要としたのだと思います。当初(1722/亨保7年)は40人を定員としましたが、翌年には100人に増え、最も多いとき(1729/亨保14年)で150人、1733(亨保18)年以降は120人程度だったようです1)

 

建物の具体的な様子や変遷については、岡山県立大学の福濱嘉宏氏が厳密な復元を行っています1)ので、それを参照することにしましょう。図1は『東京市史稿2)に掲載されている絵図をトレースしたものです。図の右側(北側)に縦方向建物が1棟あり、それに直角に5棟の「病人長屋」が並んでいます。便宜上、前者を管理棟、後者を病棟と呼ぶことにしましょう。

 

 

図1 小石川養生所(1734年頃)

東京市役所編纂『東京市史稿 救済篇 第一』19212)所収の図をトレースしたもの。福濱氏によると、『東京市史稿』の図は1734年頃の絵図を近代になってから写したものとのこと。

 

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管理棟には「薬調合所」「改所」「役人詰所」「台所」「中間部屋」「物置」「薪部屋」が並んでおり、左(南)側に張り出して井戸があります。管理棟と病棟をつなぐ渡り廊下の先には「薬煎所」が設けられています。漢方医学は外科手術的な治療ではなく、薬による内科系の治療を中心とした医療体系です。ですから、小石川養生所には、手術室や処置室に該当する部屋は見当たらず、薬関係の部屋が多数設けられていますね。

 

病棟は5棟が並び、そのうち4棟が「男病人長屋」、残り1棟が「女病人長屋」です。下から2番目の男病人長屋はほかより小さいですが、設立当初はこれが女病人長屋でした。それぞれの病棟は、5間の長さで区画された4つまたは2つの病室が廊下に沿って並べられている形です。床は板敷で、患者ごとに置き畳を利用しました。1人あたりの面積はだいたい1坪強(約3.3m2)を基準にしていたようです。現在の病室の最低面積(1人あたり6.4m2以上)の半分程度ですね。病棟ごとに小さな突起のように見えるものが複数ありますが、これは雪隠(便所)です。

 

定員が40人から100人、150人と増えていったことから、設立当初は人気があったことがわかります。しかし、幕末になると、建物の老朽化をはじめ、いろいろと問題があったようです。これからお話しする長崎養生所を建設しようとした際に、「旧来江戸にあるところの小石川養生所の衰弊」云々と、病院建設の反対の理由として持ち出されたりしたといいます3)。明治維新後に廃止され、現在は小石川植物園内に井戸跡を残すのみで、建物を見ることはできません。

 

最初の近代西洋式病院「長崎養生所」

 

長崎養生所★4はポンペ★5の建議によって、1861(文久1)年に建設された病院です。ポンペは1857(安政4)年に海軍伝習所医官として来日し、日本で初めて本格的な近代西洋医学を伝授した人です。当初は長崎奉行所内に設置された「医学伝習所」で教えていましたが、医学教育のためには病院が必要であるとして建設させたのが長崎養生所です。ここで学んだ人たちはその後の日本の医学に大きな足跡を残すことになりますが、この連載でも登場する松本順や長与專斎がその代表的な人物です。

 

残念ながらこちらも建物が残っておらず、図面の類も発見されていないため、その正確な姿を知ることは難しいです。しかし、先達の新谷肇一先生らが、ポンペが残した病院建設に関する計画書や回想録、当時の養生所を写した写真や版画、そして長崎養生所の一部をそのまま利用したと思われる長崎梅毒病院の図面などから、長崎養生所の様子をとてもていねいに検討されています4-6)。以下、新谷先生らの研究を参照しながらお話しします。

 

 

図2 長崎養生所(「精得館」と改称された頃/1865年)

 

 

敷地として選ばれたのは長崎村小島郷佐古(現在の長崎市西小島)の小高い丘陵地で、唐人屋敷と丸山(遊郭)に挟まれた景勝の地でした。建物は木造2階建ての病棟2棟と、それらをつなぐ平屋の管理棟から構成されています。上から見るとちょうどアルファベットの「H」の形をしていました。

 

図2に見える、オランダと日本の旗が立っている2棟の建物が病棟に当たります。ただし、この絵は建物の高さや窓の数など、不自然で不正確なところが少なくありませんので、その雰囲気だけ見ていただければと思います。その左側、病棟とだいたい同じ大きさの屋根が見える建物がありますが、養生所建設後に移設された「医学所」です。当初の医学所と養生所が離れていて不便だったため、養生所の隣接地に移設されたものです。

 

2棟のそれぞれの病棟には、1階に2室、2階に2室、合わせて4室の大部屋病室がありました。ポンペの計画書では、大部屋病室は25床の規模でしたから、25床✕4室✕2棟で、200床規模の病院になるはずでした。しかし実際には敷地の広さや財政的な理由などから、大部屋病室は15床規模に縮小され、15床✕4室✕2棟=120床規模になりました。

 

この大部屋病室のほかに、病棟の中央、つまり大部屋病室の間の階段室部分には個室が設けられました。1階と2階に1室ずつありますから、2棟合わせて4室。大部屋の病床と合わせ、全部で124床の病院ということになります。2棟の病棟をつなぐ平屋建ての管理棟(「H」の真ん中の棒の部分)には、診察室や手術室、薬品倉庫、図書部屋、厨房、浴室、看護人室、役人室が設けられ、その周りの庭園は回復期の患者のための散歩に利用されていたようです。

 

図3は、長崎養生所の建物を利用するなどして1881(明治14)年に改築された長崎梅毒病院の図です。そのうち、黄色で着色された建物が、長崎養生所の北病棟を移築したと考えられる病棟です。中央階段両側にそれぞれ2室になっていますが、これはもともと1室の大部屋だったのを、移築に際して間仕切りを新たに設け、2室の小部屋にしたものと推測されています。

 

 

図3 長崎梅毒病院

青木・新谷・篠原による論文4-6)に掲載されていた図面を簡略にトレースしたもの。原図は青木義勇氏が長崎県立図書館の古賀文庫より発見した。

 

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病室には畳の上にベッドを置きました。これに対しては当初異議を唱えられたようですが、ポンペは「床に直接褥を敷く」などの「古くからのしきたりと風習」は、これからつくろうとする「まったく新しい様式」の病院に合わないと、押し切ったといいます7)

 

実はこれは、単に寝具の種類の違いではなく、看護の違いに直結します。ちょっと想像してみてください。畳に布団を敷いて寝ている患者を看護したり、処置したりすることを。長崎養生所の建設を指揮したポンペ自身、これを「病人を看病する法式[ママ]」の問題と結びつけてとらえていました。

 

看護は誰が行ったか、わかりますか?

 

もちろん当時はまだ、正式に教育と訓練を受けた看護師は存在しませんでした。看護にあたったのは、ポンペに医学を学んでいた学生たちでした。学生たちは、3か月ごとに包帯法やカルテ記載、薬の調合、栄養管理、浴室の監視、種痘の管理などを交代で担当しながら、臨床を学んでいたのです。

 

ポンペ自身は、朝8時に病院に出勤してから、回診、外来診察、病床での臨床講義を行っていました。患者は原則的には誰でも診察を受けることができましたが、実際には身分の高い者が多かったようです。西洋の病院は主に貧しい人が利用することが多かったわけですから、ポンペにはやや奇異に感じられたかもしれません。

 

小石川養生所と長崎養生所の比較

 

これまで小石川養生所と長崎養生所を見てきましたが、日本の最初の近代西洋式病院と言われる長崎養生所は、江戸の小石川養生所とどのように違うのでしょうか。

 

まず、全体の構成を比べてみましょう。小石川も、長崎も、患者を収容する病棟と、それ以外の機能を収める部分(管理棟)から構成されています。実はこれは、現代にも通じる、病院建築の基本的な構成形式といえるものです。ある程度以上の規模をもつ病院の場合には、病棟は基本的には同じレイアウトをもつ建物を横に並べるか、あるいは上下に積層していきます。これに対して、そのほかの部門では、異なる機能をもついろいろな種類の部屋からなるので、同じレイアウトが繰り返し現れることはありません。

 

このように、平面計画(レイアウト)上の性格がまったく異なる病棟と病棟以外の部分が混在することが、病院建築の大きな特徴であり、その組み合わせが基本的な形式となるのです。

 

初期の病院建築では、病院全体に占める病棟部分の割合が圧倒的に大きいのですが、医療の進歩に伴い、外来診療や検査部門など、病棟以外の部分の比重がだんだん大きくなります。しかし、病棟以外の部分が充実してくるのは戦後のことで、近代の病院建築の課題はもっぱら病棟に関するものでした。したがって、この連載でも病棟を中心にお話しすることになります。

 

さて、小石川養生所では平屋建ての病棟を横に並べており、長崎養生所では積層した2棟を横に並べています。病棟の積層の有無という点では違いがあるのですが、それぞれの病棟の形式をみると、廊下に沿って病室を並べて(あるいは病室を廊下でつないで)いて、同じです。このように廊下の片側にだけ病室を配置し、残りの一方が外壁に面している病棟形式を「片廊下形式」といいます。つまり、小石川養生所も長崎養生所も片廊下形式の病棟です。

 

ついでに言っておきますと、現代の病棟においては、病室を効率的に配置するため、廊下の両側に配置する「中廊下形式」とすることが多く、片廊下形式が採用されることは稀です。一方、ナイチンゲール病棟には廊下がありませんし、次回見ていただく陸軍病院では、病室の両側に廊下が回る形式となっています。

病室と廊下の配置方法は、病院建物全体のつくり方や病室の環境に大きな影響を及ぼすので、今後、注意して見ておくことにしましょう。

 

 

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第0話…話を始める前に連載の予定

 

ゆん・せうぉん

鹿島建設株式会社営業本部医療福祉推進部で病院建築の企画や事業計画の立案を担当。1973年韓国ソウル生まれ。高校卒業後に来日し、1年間日本語を勉強した後、東京大学に入学。兵役のために休学した3年間を挟んで2007年に博士課程修了。鹿島建設に入社し、建築設計本部、東京建築支店を経て現職。入社後のすべての期間において病院建築に携わる。博士(工学)、医業経営コンサルタント。

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