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ケアする側がケアされる

 

編集部健康」とは何か。WHO憲章の前文では「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあること」と定義されています。いま世界中で政治や経済の流れが変わり、少子高齢化により社会構造も大きく変動する中で、さまざまな分野において従来の価値観を問い直す機運が高まってきています。そこで今日は、医療と情報分野それぞれの立場から「人がよりよく生きる」とはいったいどういうことなのか、お二人にとらえなおしていただこうと思います。

 

ドミニク・チェン まず孫さんにご紹介したいものがあります。僕の会社で以前、「リグレト」というWebサ—ビスを運営していたことがあって……こういうものです。

 

 

これ、どれも匿名の書き込みなのですが、ちょっとしたネガティブな感情をみんなが持ち寄って、それをお互いでポジティブな思いに転換するサイトです。自分がヘコんだり落ち込んだことを投稿すると、それを見た人たちが励ましのメッセージを送ってくれます。比較的軽いヘコみばかりを扱うのと、慰めのメッセージを140字以内に制限したり、デザインもかわいらしくしたり、裏側で情報の流れを制御して荒れにくい場として設計しました。「怖くない2ちゃんねる」のように言われたこともあります。

 

投稿者が真ん中にいて、励ます人が周りに寄り添うような見せ方にしていて、ケアされている感じがうまく出せていたと思います。面白いのが、一つひとつのコメントに対して「ありがとうポイント」を送れるところ。39個送ったら「サンキュー」で“成仏”し、消えて行くのです(笑)。

 

 

利用者の7〜8割が女性で、日々のなかでちょっと嫌なことがあるとここに来て慰めてもらい、すっきりしてまた現実に帰っていくというサイクルが生まれていたようです。面白かったのが、ヘビーユーザーについて調べてみると自身がヘコみを投稿するのではなく、一日中ひたすら他の人を慰めまくっていたのです(笑)。自分の慰めを読んだ誰かが成仏したことを実感できるのが喜びになっていたんですね。サルトジェネシス(Salutogenesis:健康生成論)の中に感謝の念というものが含まれることを後になって知ったのですが、おそらくそういうウェルビーイング因子を期せずして満たす設計になっていたのでしょう。

 

この経験から、情報技術を扱う者として人々のいろんな機微に触れることに責任を感じました。同時にあくまで生活上の補助的なツールと見られているこうした情報サービスが、結構重要な役割を果たし得ることに初めて気づかされました。ちなみにこのサービスは最盛期に100万人以上のユーザーがいましたが、収益性を考えずにつくったこともあり、今は残念ながら終了しています。

 

孫 大輔 このサービスが流行った背景には、これからの時代に求められることの本質が隠れているような気がしますね。人間はコミュニケーションに共感が付加されたときに満たされるという。

 

チェン そうですね。ちょうど同時期に日本で流行り始めたツイッターでは、ネガティブで一方的なつぶやきをすると誰からもレスポンスがない可能性が高く、それでいいという設計になっています。一方で僕たちの場合は、ヘコんだ気持ちを投稿する全てのユーザーがちゃんと慰めをもらえるようにする、という設計思想に基づいていました。

 

 ウェルビーイングやポジティブ心理学を批判的に見るなら、そこにある個人主義的な傾向が問題になります。フランク・リースマンらがヘルパーセラピー原則「援助をする人が最も援助を受ける」(『セルフ・ヘルプ・グループの理論と実際—人間としての自立と連帯へのアプローチ』アラン・ガートナー、フランク・リースマン著、川島書店、1985)で示しているように、やはり人とのつながりや関係性の中でいかにそれらを向上させていくかが重要なのですね。

 

たとえば僕は先日、宮原由佳さんという方のタイ古式マッサージを受けました。彼女は、バンコクにある第一級王立ワットポー寺院のタイ伝統医学校で5年間、外国人で唯一修業をされた人なのですが、「施術時間は、1時間程度ですか?」って聞いたら「できれば2時間やらせてくださいって」言われました。終わった後「ずっと続けていて疲れないのですか?」と聞くと「やればやるほど元気になります」とおっしゃっていましたね。

 

チェン それはすごい。きっとケアする側とされる側という二項対立を前提とせずに、間主観的にお互いが深まっていくようなことなのですよね。「リグレト」を見た株主の一人から、これはアメリカのアルコホリックス・アノニマス(Alcoholics Anonymous:飲酒問題を解決するための自助グループ)に似ているねと言われたのを思い出しました。また、キリスト教の「告解室での懺悔」のようにも見えるとも話していました。インターネットの集合知を介して告白に許しを与える仕組みが「宗教2.0」みたいだねって。そういう見方もあるんだなと思いました。

 

 それを聞いて、フィンランドの西ラップランドで行われているオープンダイアローグという精神疾患を対象とした家族療法のことを連想しました。患者や家族から連絡を受けた治療チームが1日のうちに自宅へ訪問してミーティングを行うもので、メンバーは本人と家族や親戚、医師、看護師、心理士など。そこで行われるのはとても開かれた対話で、専門家がクライアントを導くような一方的・上下的な関係性を徹底して回避しているところが特徴です。この手法によって患者の薬物の服用量が半分以下になるといったデータも出ており、日本でも注目が高まっています。

 

こうした動きを見ていると、ケアの関係性というのはフラットになってきており、非専門家にも治癒を促す力があって、実はむしろそういう関係性の中でこそ人間はより癒されていくのではないか、という考えがだんだんと普及してきているようです。オープンダイアローグには専門家も入りますが、重要なのは集団の中での対話とリフレクション自体にあるのではないかと僕は思います。

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