『みみをすます』福音館書店/1982年

interview

言葉を待つ 谷川俊太郎 中 編

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西村 意味を考えるよりも、そうやって身体からこぼれ落ちてきたものを一つひとつ一緒に分かち合ったり、時には突き離したりすることが必要なんでしょうね。

 

谷川 そうなんですよ。先ほどお話した「宅老所よりあい」の人たちは、認知症の老人が徘徊したら止めないでずっと一緒に歩いて回り、お話ししながら結局うまい具合にホームへ戻るよう誘導する。そういう付き合い方をしてますよね。

 

西村 教育や研究では常に「なぜそう考えたのか」「なぜそうしたのか」という理由が問われます。しかし理由がなくて生まれてくる言葉や行為もたくさんあるということを尊重しなければ、すべての物事と理由がセットになって無秩序の世界がなくなってしまいますね。

 

谷川 僕は子どもの頃にそれを経験しましたよ。小さいときってよく泣くじゃないですか。自分ではどうして泣いているのかよくわからないんだけど、親は必ず「なんで泣いているの?」って聞くでしょう。それに腹が立つわけ、子どもは(笑)。「よくわかんないから泣いてるんじゃないか!」って言いたいんだけど、子どもだから言えないんです。大人になって考えてみて本当にあの時の質問は間違っていると思いましたね。

 

 

私とあなた

 

西村 もう一つ伺いたかったのは、たとえば詩集『みみをすます』(福音館書店、1982年)の「あなた」という詩について。私はこの詩が大好きなんです。もちろん、人によっていろんな読まれ方をすると思うのですが、私の場合、自分の祖母が亡くなるときに感じていた気持ちが蘇ってきます。入院中に容態が悪くなるなか、本人が治療したくないって言うので、しょうがなくみんなで交代して付き添って、添い寝とかいろいろできることをしながら最期を看取りました。そうやって私たちの前からいなくなってしまった祖母のことを憶えているので、私にとって人が亡くなるということは、「死」という事実よりも「もう会えない」という気持ちになった経験として蘇ってくる...。

 

この詩の最後の「たとえはなればなれのみちを/あゆむとしても/あす/わたしは/あなたに/あいたい/(空行)/あなたは/どこ?」というくだりにはじーんとさせられ、なんとも言葉にならない感覚を覚えます。亡くなった人のこともそうですし、大好きだった人のことだとか、今はもう会えない大切な人のことなどを想う気持ちと重なるんですね。

 

谷川 なるほど。これは二人の女の子の話で、簡単に言えば「自分にとって他者とは何か」みたいなことが書いているわけですね。でも読者の中に「恋愛詩ですね」と言った人がいて、考えてみたら確かに発端は恋愛だったんですよね、これ。何か恋愛をしたというんじゃなくて、当時あった恋愛感情がこの詩を生んだきっかけだったんです。

 

西村 そうなんですか。

 

谷川 やはり詩の中に自然とそういうものが入っていたから恋愛詩として読めたんですね。詩というのはすごく多義的に解釈できるんだけど、この場合にはそういう理由があった。自分では小学生の女の子二人の話を書いているつもりでも発端となった恋愛感情がどこかに入っていたんですね。

 

西村 この詩にたくさん出てくる「あなた」にはいろいろな「あなた」があって、突き離された「あなた」もあれば、むしろ自分に問いかけている「あなた」もあったり。

 

谷川 そうですね。

 

西村 この「あなた」というのは谷川さんご自身にとって、どういう「あなた」なんでしょうか?

 

谷川 僕は何しろ大学にも行ってなかったので、詩を書き始めてしばらく生活のめどが全然立っていませんでした。でも非常に幸運なことに最初に書いた詩が商業的な文学誌に載って、そこから初めて原稿料というのをもらったわけですね。

 

その頃から大学にはもう行く気がないし、将来サラリーマンになっても真夏の地下鉄に乗れるかしら? みたいな恐怖があって、書く仕事でやって行かなきゃダメかなって思いながら、徐々に原稿料とか印税が入ってくる生活に入っていったんですよ。だから最初から読者がすごく自分にとって大事だったわけ。

 

読者にわかってもらえる、感動してもらえるものを書かなきゃという感じで、自己表現なんてほとんど考えていなかったと思いますね。普通の詩人はみんな「私」から始めるんですけど、僕はまず生活の必要から「他者」というものがずっと問題になっていましたね。

 

西村 私たち看護職も、職業柄どうしても自分のことより他人のことを考えてしまうんですが、ある哲学者から「なぜ西村さんはいつも他者のことばかり考えるんですか」と言われたんです。「哲学はまず自分のことからでしょう」って。それで「いや、人によるんじゃないですか?」って言っちゃったんですけど。

 

谷川 そうですよね。他者を問えば、それはもうどうしても自分を問うことにつながっちゃいますから。

 

西村 はい。哲学者の鷲田清一さんが私の「裏の師匠」なんですけど、よく「私という存在は、私にとっての他者、その他者にとっての他者として私がある」というようなことをおっしゃっていて、他の何かを見ることにおいても、自分の見方やこだわりがいつもその見ることに現れているはずなので、見ることは何かへ関心を向けることであるのと同時に、自分の見方やこだわりをも問い直す再帰的な構造として営まれている。いま改めて思うのは、そういう構造そのものが谷川さんの詩にも表れているので我々はぐっと引き込まれるんだと。

 

谷川 それはあるかもしれませんね。僕は一人っ子だから余計に他者が問題だったんでしょう。兄弟喧嘩の経験もないし、親ともうまくいってたし、初めて恋愛をしたときに「最初の他者」に出会ったような感じですね。一人遊びが好きで友達はとくに要らないという子どもでしたから。

 

後編につづく|前編はこちら

参考『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一著/講談社新書/1996年

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