interview
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『定義』思潮社/1975年
言葉の前に隠れている「不気味」
西村 話が飛躍するんですが、先ほど玄関を探してお家の周りを少し歩いていた時に、空を大きな鳥が飛んで行きました。静かな住宅街のなかで鳥の羽音ってあんなふうに聞こえるんだと初めて思ったんですね。たぶん今から谷川さんのお宅に伺うんだ、という気持ちがあったからだと思いますが、いつも耳にしているのに聞こえていない音を聞けたような感覚です。詩ですべてを表すのではなく、そういう世界に一緒にいられるのが詩なのかなと思いました。
谷川 詩人の特徴として、日常生活から見ると放心しているようなところがあるんです(笑)。萩原朔太郎さんがね、ご飯を食べるときにポロポロこぼすのが有名だったんですって。あの人、いつも何か他のことを考えていたんでしょうね。僕もわりとこぼしちゃうほうで、ただぶきっちょなだけなんだけど「俺は朔太郎だ」って威張っているわけ(笑)。
西村 可笑しい(笑)。放心しながら主張していると。
谷川 つまり、日常的にはちゃんとした意思をもっているつもりなんだけど、そうじゃないときがあって、同じ一つのものを見ていても人とはたぶん見方が違うんだろうなと、ふと思うことはあります。
西村 どこか違う次元に行かれているんですね。
谷川 そう。よくわからないんだけど少なくともそこで言葉にしようとは思ってますね。僕の『定義』という詩集でも、たとえば普通はなんとなく使っている、コップというものを定義しようとすると結構大変なんですよね。日本語にはそれが不得意なところがあるから、あえて無理やり定義してみるとだんだん詩みたいになっちゃう。
西村 そういうところは現象学と似ていますね。サルトルが「テーブルの上にあるカクテル・グラスからでも哲学を展開できるんだ!」と感動したというお話があります。
谷川 サルトルが書いた『嘔吐』の中で、主人公が栗の木の根を見て吐き気を催したのは、ようするに言語以前の存在がいかに不気味かっていう話ですよね。詩人としてはそこに迫りたいわけです。でもなかなかそうはいかずについ名前を付けちゃうんだけど。
理由がわからないから泣くんだよ!
西村 病院の中には複数のナースたちや医師、薬剤師などがいます。しかも患者には突発的にいろいろなことが起こるので、みんなが同時にわーっと動いて必要な対応をしていきます。その時その場で物事がどのように起こり、誰がどんなふうに判断や指示をしながら協働を作っているのか。私たちは研究者として一緒に動きながらこうした場面を観察し、自分が見えた範囲のことをできるだけ丁寧に書き留めるということをしています。その後、それらのデータを解釈したり分析したりする作業をするのですが、出来事があまりにも詳細に書かれているのでどう解釈していいかわからない。
先日、その作業の合間に学生たちと「谷川さんの詩のこういうリズムって面白いね」っていう話を何気なくしたんです。そのあとに、またデータの分析に戻ってハッと気づいたんですが、言葉に意味を与えようとするよりも、その場の雰囲気やリズムが、フィールドノーツというデータの記載のされ方に表れているんじゃないか。そうであれば、言葉の意味のみに固執しなくてもいいじゃないかという話になったんです。
谷川 僕はリズムよりも日本語の場合、「調べ」というほうが近いような気がしているんですけどね。英語の抑揚はストレス・アクセント(強さのアクセント)だからリズムがとりやすいけど、日本語はピッチ・アクセント(高さのアクセント)でしょ。だから「かっぱかっぱらった」みたいなスタッカートなリズムっていうのはなかなかつくりにくいんです。
西村 たしかにそうですね。
谷川 「調べ」の中には非常に音楽に近いものがあって、言語がいい意味で「意味」を失うところもあると思う。だから詩は文芸の中で最も音楽に近く、また最も「無意味」に近いところへ行けると思っているんですけどね。僕はそもそも、詩よりも先に音楽に目覚めた人間なんですよ。言葉遣いもたぶん音楽に相当深く影響されていて、音楽そのものに限りなく近づきたいと思うことはありますね。
西村 無意味に、というのはよりリアルに近づきたいということ?
谷川 そうであるのと同時に言葉というものを遊ぶという態度を大事にしたい。とくに教育の世界ではそれがすごく少ないから。音的にも豊かで意味的にもさまざまな広がりがある言葉の可能性を目指したい、と言えばいいのかな。詩の世界に限らず、今のように意味であふれかえっているせいでむしろ意味同士が殺し合っているような世界では、ノンセンスによって少し息抜きをする必要があるという気がしますね。
西村 本当にそうですよね。
谷川 哲学者の鶴見俊輔さんがノンセンスを「生きることの肌触り」とおっしゃっていたんですよね。それにもすごく影響をされて、僕もノンセンスなものを書きたいと思い一所懸命取り組んでいるんだけど、意味がどうしても邪魔をしてしまいます。
西村 意味が邪魔するのを、たとえばどうやって迂回したり回避するんでしょう?
谷川 言葉と言葉の組み合わせで、何か通常の意味ではないところに行くというのが詩の目指すところでしょうね。
西村 そこにはまた、意識のあるなしのせめぎ合いがあったり…。
谷川 もちろんあるでしょう。だから読む人によっては「全然こんなもの意味がない」って片づけられちゃうわけですね。こっちは意味がないところを一所懸命狙うんだけど。
西村 看護師が患者さんとともにいる世界から掬い上げようとしているものと共通しているのかもしれません。言葉だけでなくそれを含めた身体を介して伝えられる音楽的とも言える何か…。
谷川 僕は一人っ子だから母親との結びつきがすごく強かったんですよね。彼女は理知的な人だったから僕を甘やかさずに育ててくれたんだけど、まあ認知症になっちゃうと昔の母じゃない人になりがちなわけですよ。
たとえば毎晩のように私の書斎に上がってきて、原稿用紙に父の悪口を書き連ねていくんです。若いころの父はけっこう母を裏切っていたわけ。母はその恨みを秘めながらもずっと父に尽くしてきたんだけど、認知症になって素が出てきたんですね。「いま玄関に若い女の人が来てるのよ」って言いに来たりする。賢明な母を知っているから、そういうのがもうやりきれない...。
病人はそのようにすごく身体の深いところから何か言いたいことが出てくるんだけど、言葉がなかなか見つからなかったりするんでしょうね。だから結局、わめいたり泣いたりすることになるのかな、と思ってましたけどね。
『嘔吐』ジャン=ポール・サルトル著/人文書院/2010年(新訳)
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