特集:ナイチンゲールの越境  ──[戦争]

野戦病院での傷病兵の治療のようすを再現した実物大のジオラマ。

 小特集「戦争とこころの傷 」 リポート「しょうけい館」 [第1回]戦傷病の実態 text by 林田悠紀子(編集部)

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しょうけい館は、戦争で傷病を負った人々(戦傷病者)とそのご家族が、戦中・戦後を通じて体験したさまざまな苦しみや困難、そして当時抱かれていたさまざまな想い(労苦:ろうく)を後世に伝えていくために、厚生労働省が開館した施設です。館名は「労苦を語り継ぐ」という趣旨から「承継館」と名づけられ、子どもから大人まで多くの人々に親しんでもらえるようひらがな表記とし、「戦傷病者史料館」と附記されました。

 

同館では、戦中・戦後の労苦を伝える実物資料や体験記・文献・体験者が語る映像史料を収集し、これらの閲覧サービスも行っています。また、所蔵している図書と資料のほか、国内外の類似施設の概要や文献の所在などの情報提供も行っています。

 

このレポートでは2回にわたり、しょうけい館のさまざまな展示や活動を紹介しながら、同館の重要なテーマである「戦傷病の実態」と「戦傷病者の語り」について考えていきたいと思います。

リポートの第1回は、展示の紹介を通して戦傷病の実態に迫ります。

 

しょうけい館の常設展示は、数多くの体験者からの寄贈品や証言記録が整理されており、戦場で負傷したある一人の兵士の足跡を時系列で辿るように見ていくことができます。以下、展示室の見取り図に沿って、施設をご案内くださった学芸員・木龍克己さんの説明をもとに解説していきます。

 

常設展示場の見取り図

(「しょうけい館」HPより)

 

①プロローグ

常設展示の全体を通して、ある一人の兵士の徴兵から戦後の暮らしまでを追体験できるように構成されています。

 

②戦争とその時代

軍隊に入るための身体能力を確認する「徴兵検査」が、どのようなものだったのかを知ることができます。戦時中、20歳になった男子は全員、徴兵検査を受けました。甲乙丙丁戊の5段階にランク分けされ、甲種での合格が最も優秀とされていました。若者が軍隊に送り出す(陸軍は「入営」、海軍は「入団」)ときに使われた幟(のぼり)などがここに展示されています。日中戦争から太平洋戦争に移ると材質が悪化していき、物資不足となっていく様子をうかがうことができます。

 

③戦場での受傷病と治療

負傷した兵士(傷痍軍人)の止血用には三角巾が使用されましたが、大量出血ともなれば、日章旗(寄せ書きした日の丸)や千人針(出征兵士に持たせたお守り)など、身につけているものを止血に代用しました。展示では実際に使用されたそれらを見ることができます。

 

また、銃弾が貫通せず体内に残った場合は摘出しなければなりません。そのほかにも、爆弾の破裂の際には銃弾よりも重量のある金属片が四方に飛散して同様に負傷します。戦場では麻酔無しで摘出が行われるという過酷な状況も少なくありませんでした。

 

<上:被弾したメガネ> 持ち主は負傷により左目を失明されましたが、メガネをかけていなければ銃弾が頭部を貫通し、即死の可能性もありました。

 

<下:被弾したタバコケース> 身につけていたタバコケースに命中したため、銃弾が脊髄の近くで止まりました。しかしこの方は、神経を痛めるという理由で手術で摘出することができませんでした。体内に銃弾を入れたまま生涯を過ごし、亡くなる直前に「自分が死んだら弾を取り出してほしい」と話されました。その願いが叶えられたのは火葬場でした。他界して初めて摘出されたのです。

 

<日赤看護婦の制服> 陸軍病院で勤務していた看護婦(当時)の外出用の制服(複製品)です。戦地では、病院用の制服は、活動しやすいようにキュロット・スタイルとなっていました。南方では、白では目立つということで草木色に染めて使用したところもあったようです。

 

 

<戦時中の救護・収容> 陸軍、海軍の戦傷病者の収容体系の違いを示しています。初期の段階では、このような収容も可能でしたが、激戦地や、連合軍に制空権、制海権が奪われた戦地では、病院船などでの内地還送が困難であったところもありました。

 

④野戦病院ジオラマ

太平洋戦争末期、南方での野戦病院のようすが再現されています。ジオラマの制作にあたっては、インパール(インド北東部)作戦の最前線にいた軍医の監修を受けました。洞窟の入り口に負傷兵を運び込む衛生兵、壁に寄りかかっている傷兵、担架に乗せられたままの傷兵が描かれており、治療を受ける傷兵、治療を終えて放心状態の傷兵をリアルに表現されています。

 

 

<下・手術中の場面> 物資の供給路が絶たれていたため、薬品も麻酔も枯渇するなかで治療に当たるようす。

 

 ジオラマを通じて、戦場のリアリティをどこまで追求すべきなのかを、学芸員・展示設営担当でよく話し合われたそうです。表現のしかたによっては、見学者に「怖い」という印象しか残さない可能性があるからです。そこで、負傷の様子をリアルに再現するよりも、主に表情や身体の動きにこだわりました。

 

⑤本国への搬送

 

上の展示パネルには、5人の受傷者の足取りが記されています。傷病となった回数が一度だけではなく、複数回の方もおられ、前線での滞在期間がさまざまだったことがわかります。

 

<病院船> 氷川丸は、日本と米国のシアトルを結ぶ豪華客船でしたが、戦争が始まると海軍に徴用されて病院船として、傷病兵の搬送に利用されました。船体を白くし、側面にグリーンのラインと赤十字のマークを加えて、病院船であることを強調しました。また夜間は煙突部分をライトアップして赤十字マークが点灯する仕組みでした。ジュネーブ条約では病院船への攻撃は禁止されていましたが、戦争が激化してくるとその取り決めは有名無実化し、日本の病院船はほとんどが撃沈されました。氷川丸は難を逃れた一隻であり、戦中・戦後を通して活躍したのち現役を退いた今は、係留されている横浜港で見学することができます。

 

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 小特集「戦争とこころの傷 」

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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