特集:ナイチンゲールの越境  ──[情報]

 

こうもりの翼とバラの花

 

text & photo by  丸山 健夫

ナイチンゲールが提出した、ヴィクトリア女王勅撰委員会の報告書(1858刊)[ 文献1より]

ドーバー海峡の船上で

 

今から160年以上も前のことである。ヨーロッパ大陸の西の端、ドーバー海峡をフランスからイギリスへと向かう船の上に、偽名を使って乗船したひとりの女性の姿があった。「ミス・スミス」と名乗るその女性。彼女こそ、イギリスの新聞・タイムズ紙の報道で一躍「時の人」となった、フローレンス・ナイチンゲールその人だった。

 

クリミア戦争の戦地における献身的な看護活動で、まさに国民的英雄となっていた彼女の帰国を、人々は今かいまかと待ち望み、軍楽隊による歓迎式典やパレードを計画するものさえあった。しかし彼女はそんな歓迎ムードをあえて避け、一人の人間として母国に向かう船上にいた。歓迎の中に身を置くことよりも、ナイチンゲールにはやらねばならないことがあったのだ。

 

25歳の頃のフローレンス。[ 文献 2 より]

 

1820年5月12日、ナイチンゲールは両親の新婚旅行中にイタリアで生まれた。フローレンスという名は誕生地フィレンツェの英語名にちなんでいる。

 

彼女の両親は1818年に結婚。その3年前まで「ナポレオン後」を論じ「会議は踊る、されど進まず」と言われたウイーン会議があった。スイスが永世中立国になったのもこの会議においてである。つまりナイチンゲールの両親が結ばれた時期は、ちょうどナポレオンによる戦乱が終結して平和になったばかりで、ヨーロッパ大陸への旅行が可能となっていたのだ。

 

「じゃあ、イタリアへ行こう!」と、名門ケンブリッジ大学出身のウィリアム・ナイチンゲールは新婦に言った。イタリア人のようにイタリア語が話せた彼は、きっと愛する妻ににその腕前を披露したかったに違いない。そして何よりウィリアムは、長期間の旅行が簡単にできるほど裕福だった(わずか9歳にして一族のすべての遺産を相続していた)。フローレンスが生まれる前年にはナポリで長女が誕生しており、1821年に帰国した時、家族は4人になっていた。

 

ナイチンゲール姉妹と母。[ 文献 2 より]

 

旅がもたらしたもの

 

イギリスに戻ったナイチンゲール一家は、イングランドの中央に位置するダービシャーに、“リー・ハースト”と名付けた豪邸を建てた。しかしそこは内陸で冬が少々寒いため、南部の海岸にほど近いエンブリー・パークにもう一軒の家を購入する。この建物は現在、ハンプシャー・カレッジエイト・スクールという寄宿舎付きの学校になっている。

 

一家は夏になるとリー・ハーストで過ごし、冬が近づくと暖かい南のエンブリーに移った。そして春を迎え社交界の季節になるとロンドンでホテル住まいなどをして暮らした。ヨーロッパの上流階級はこのように、季節ごとに住む場所を変えていたのだ。映画などでよく見る寄宿舎付きの学校には、こうした背景があったのだろう。

 

フローレンス自身はどのような学校に通ったのだろうか。当時の裕福な家庭の娘たちは皆、家庭教師から必要な教養を学んだ。彼女もまたそのようにして教育を受け、しかもその「主任教授」は、父・ウィリアムだった。 彼は娘たちにラテン語やギリシャ語を教え、フローレンスは少女の頃から古代ギリシャ詩人・ホメロスの作品を父親と一緒に読んでいた。彼女の知性はこうした父による熱心な教育に負うところが大きい。

 

一家の2つの住まいがあった場所。[ 文献 3 より ]

 

フローレンスが17歳の時、エンブリー・パークの邸宅を改築することになった。「それなら、旅行にでも」と、ナイチンゲール一家はヨーロッパ旅行に出かけた。期間は1837年9月から1年半にも及ぶ。当時のフローレンスにとって、その旅は今の日本で言えばちょうど高校の修学旅行の時期に当たった。

 

感受性豊かな思春期に体験した大旅行は、その後の彼女の人生に大きな影響を与えた。一家はフランスやイタリアをのんびり旅し、それぞれの地域の芸術や文化に触れ、数多くの知識人たちとも交流を重ねる。彼女は各国ごとの社会制度の違いを実感し、それらに強く興味を抱き、土地土地でさまざまな「資料」を集めていった。1839年4月に一家は帰国し、その後しばらくロンドンに滞在する。そこで父は、2年前に即位したばかりのヴィクトリア女王に娘たちを謁見させた。当時フローレンスは19歳、女王は20歳だった。

 

 

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教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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