ヴィクトリア女王の勅撰委員会を構成する9人のメンバー。この中にナイチンゲール自身の名前はない。
アンドルー・スミス
委員会設立時の陸軍医務局長。陸軍軍医であった彼のみが、ナイチンゲールと対立する委員であった。
トーマス・アレクサンダー
軍医。ハーバートによれば陸軍最高の外科医。クリミアで活躍したアレクサンダーはその有能さゆえ、戦後カナダへ左遷される。この委員会のメンバーになることで本国に呼び戻され、1858年6月、陸軍医務局長となるも、1860年2月に47歳で急逝する。
トーマス・フィリップス
法律家。尋問が得意であり、委員会で必要となる証拠集めの補佐役としてハーバートが推薦し委員となる。
ジェイムズ・クラーク
ヴィクトリア女王の侍医。ナイチンゲールがスコットランドで女王と面会できるようにアレンジしてくれた人物。ナイチンゲール家の古くからの個人的な友人でもある。
ジャイムズ・ラナルド・マーチン
インドにおける医療と衛生問題の専門家であり、東インド会社の医療部門の最高責任者でもあった。ナイチンゲールはのちに、インドの衛生について強い関心を持つ。
ジョン・サザランド
内科医であり衛生学の専門家。ナイチンゲールの赴任したスクタリの病院の悲惨な状況を調査する調査団の団長。現地で苦労していた彼女にとっては、いわば助っ人ともいえる人物であった。
結局、ハーバートを含めた9人中8人が「ナイチンゲール派」つまりは「改革派」となった。「反改革派」はアンドルー・スミスただひとり。しかし彼は当時の陸軍医務局長であり、役職上、委員にせざるを得なかった人物ではある。委員の人選は、ナイチンゲールの圧勝であった。ただ、読者のみなさんは大切な人物の名前がリストにないことに気づかれただろうか。そう、委員リストにフローレンス自身の名前がない。
彼女の役割
ナイチンゲールは、この委員会の設置を発案し、女王の許諾を得て、陸軍大臣と人事について協議し、のちにはその報告書の骨子作成のほとんどに関与した。その彼女が委員でない。これは当時の政治システムによる。
ヴィクトリア時代といえば、男は男らしく、女は女らしく。ジェントルマンとレディの世界である。もちろん、女性に参政権はない。政治は男性が「分担」すべき代物であった。英国において、世帯主や一定の不動産所有者、大卒などの条件のもとで30歳以上の女性に選挙権が与えられるようになったのが1918年。この報告書が世に出てから60年後のことである。21歳以上の男女に平等に選挙権が認められたのは、さらに10年後の1928年。すなわち70年後の未来のことだった。
そんな時代に、ナイチンゲールは、いわば影の内閣としてその委員会を主導する立場に徹し、委員会の「証言台」に立つことさえも躊躇していた。委員によるインタビュー形式であっても、自分の主張を自分のストーリーで表現できるとは限らない。またクリミア戦争当時、戦時大臣という当事者であったハーバートに迷惑がかかるのではないかという危惧もあった。
そこで彼女は、委員会からの文書による質問に対して文書で回答するという形式を選択した。こうすれば、自分でつくった質問に自分で答えることができ、彼女自身のプロットで思う存分主張を表現したものが、公式の報告書に掲載される。
しかも、お堅い文章が延々と並ぶ委員会報告書にあって、Q&A形式なら読む人にとっても非常にわかりやすい。当時の政治状況の中で、最大限に効果的な主張ができるのだ。そして実際に、報告書のこの部分には、彼女がもっとも言いたかったストーリーが、コンパクトにまとめられている。ビショップとゴールディによる「ナイチンゲールの文献目録」でも、報告書の361ページから394ページにあたるこの34ページの内容を、「彼女の作品」であると認めている。
ナイチンゲールは
なぜ「換気」に
こだわったのか
新型コロナウイルスの感染対策として「換気」の重要性がクローズアップされている。ナイチンゲールが繰り返し延べてきた「新鮮な空気」と健康保持についての主張にさまざまな角度から迫る。
岩田健太郎 他 著
日本看護協会出版会
四六判・104頁
定価(1,300円+税)