連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile

image: Center for Disease Control and Prevention

前篇/第5回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「逆のエネルギー/破壊を 逃れた要素」

連載のはじめに

 

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「逆のエネルギー」

 

これまで述べた7つの破壊・否定は、それぞれ逆方向のエネルギーも同時に引き起こします。そして、その狭間で、人々は時に強い葛藤を経験します。これを見ていきましょう。

 

「その1:人が物理的に集まること(集合性)の否定」では、経済的集合が否定されればされるほど、人はより商品を消費したくなり、経済的に集まりたくなるという葛藤が生まれます。何より、経済の循環を動かさねば、食べていけない人たちや貧困層が膨れ上がっていきます。

 

非経済的なコミュニティも、それが否定されるほど、ますます人に会って話したくなり、人の温もりを求めるようになります。この葛藤が疲弊や苦しさを生み、蓄積されていけば、「爆発」の種になりかねません。

 

実際、コロナ問題によるさまざまな国家による制限は、不満をもつ民のデモにつながりました。冒頭で述べたブラジルやアメリカの経済再開やロックダウンの解除を求めるデモです。集合の否定は、その「自由への欲求」を爆発させます。長期化し、この自由へのフラストレーションが続けば、そして既述のように新たな貧困層の出現や格差が広がれば、困窮だけでなく暴動や争い等の社会秩序の混乱にも発展していく可能性が高まります。

 

次の「その2:グローバリゼーションと移動の否定」では、各国が自国の境界管理を強化しつつも、他国に頼らざるを得ない点や、グローバルに国家同士がそもそもつながっていることがかえって顕在化もします。たとえば、他国からの入国制限の一方で、薬、マスク、人工肺といった医療装置など、自国に不足するモノに関しては、ますます他国に求めたくなります。それでなくとも、何気なく当たり前のように購入していた商品、あるいは生産していた商品が、いかに他国の生産に依存していたか、グローバルに国と国とが相互依存しているのかをますます痛感します(たとえば、中国にて部品が生産されず、特定の商品が入手できなくなってしまうこと)。

 

すなわち、「その1・2」は、(互助的なコミュニティを除き)コロナ後のいっそうの消費社会を促す萌芽でもあるといえます。あるいは、特定の国に商品生産を依存するのはやめようと、生産の拠点をうつす動きをもたらしうるものでもあります。この拠点移動もまた、グローバル資本主義からして、おかしなことではなくむしろ自然な流れです。世界の覇権を握る国をヘゲモニーと言いますが、その権力は経済の力と同期していました(経済力があれば、さまざまな国に影響力を及ぼすことができ、軍備も強化できます)。

 

そして、そのヘゲモニーはかねてよりオランダ、イギリス、アメリカと拠点を移動させてきました。このように、資本主義はその存続のために国家間で拠点を移動させていく性質を持つと言われています。昨今は中国が次のヘゲモニーになりうると言われ、アメリカと覇権を争っていました。そのような争いと結びついて、新型コロナを機にむしろ別の国へ移動していくかもしれない。もしくは特定の拠点ではなく、ここ(国際関係)でも「各国への分散化・多極化」といった新しい動きが発生していくかもしれません。そうすると、徐々に富める国が富む(世界の中心に経済が集中する)というグローバル資本主義の在り方が変わってくる可能性もあります。

 

「その3:集権権力の否定」は、それによってむしろ、国家による統制の強化、国家権力の強化をいっそう招きます。ネグリ&ハート(2004/2005)という哲学者は、かつてのアメリカ同時多発テロ事件をふまえ、「非常事態」においては国家権力が強化され、国民が恒常的な監視下に置かれることを論じました。同様に今回も、非常事態宣言やロックダウン、外出自粛要請ないし罰則を設けた禁止といった形で各国家は(各々、具体策は異なりますが)、人の移動の自由を制限するとともに、個人や法人の収入の補償などの税金の再分配を強め、ますます権力が強化されていきます。

 

そして、ほとんどの国民が「この非常事態」においては「やむなし」と考え、自ら統制を求めるようにすらなります。言い換えれば、一方での「集権権力の否定」によって、他方でますます「権力強化」が図られていきます。このことは、後述の6章で述べる戦争の可能性や、次の「その4」で述べる監視社会の可能性へとつながるものです。

 

「その4:科学技術による自然制御の否定」は、同時に、科学による自然統制を強く要求することにつながります。皆が待ち望んでいるワクチンや特効薬の開発とは、この現在のところ否定されてしまっている「人間による偉大なる対自然の統制力」を、新たな技術開発によって乗り越えようとするものです。薬の開発に限らず、対コロナにまつわるさまざまな技術や商品がこれから開発されていくでしょう。それが新しい市場にもなります。

 

また、技術は対自然だけでなく、「その3」の権力と合わせて「対人間の統制や管理」にますます活用されていく方向もあります。たとえば、既にカメラでの自動的な体温測定が導入されていますし、韓国では、新型コロナウイルスの感染が疑われる自宅隔離の違反者に監視腕輪をつけるという報道もあります※注。国と国民の関係だけでなく、在宅労働や教育においても「勤務に参加しているか」を監視するような仕組みが問題にもなっています。このような監視技術や仕組みはいっそう発展していくかもしれません。

 

※注:日本経済新聞WEB版 2020年4月17日記事

 

もちろん、情報技術による監視社会の懸念は、コロナ問題を待たずとも昨今ますます言われるようになっていた事柄ではあるのですが、そもそもこのような監視的発想自体は決して今に(情報技術に)新しいものではなく、哲学者のフーコー(1975/1977)は、もっと古くからパノプティコン(一望監視塔)として議論をしていたものでもあります。つまり監獄の看守は中央の監視塔から囚人を一望できるが、囚人は看守の視線を確認できないという権力構造です。これに似た構造が学校などのさまざまな領域でもあると議論されてきました。このように権力とは古くから監視と統制を好む性質を持つものです。こうした古くからの権力の性質と、今回のコロナ問題という緊急事態並びに新しい情報技術とが手を取りあって、監視と統制=権力強化を促す可能性があります。

 

「その5:進化論的なヒエラルキーの否定」もまた逆に、この「その4」の技術開発によって、「ウイルス<人間」という人間優位の地位を回復・維持しようとする力を強めていくと思います。二度と感染症など拡大させたくないと各国、各国民が考えていったときに、人間の生命とプライドと地位を護るべく、さらなる自然の統制が促される可能性があります。それは、後述のように、人類の進化や文明の発達とは、実は、歴史的に見れば菌やウイルスの関係と切り離せないにもかかわらず、「その4」の科学技術による自然支配の志向性と相まって、無菌状態、無ウイルスの状態の社会を目指す、人と人がソーシャルディスタンスをとることやマスクすることが恒常的な慣習となるなど、潔癖文化を生み出すかもしれません。

 

「その6:所有の否定」は、その一方で「ウイルスの所有」という概念を強化します。つまり「自分が健康被害を受けるのは嫌だから感染したくない(他人のウイルスを取り込みたくない)」という思いを人は強めます。あるいは逆に「自分が感染しても重症にはならないだろうし、他人にうつろうが知ったことではない」という思いをもつ人も生み出します。後者は一見、「ウイルスの所有」ではなく「ウイルスの共有」のようにも見えますが、「自分のこと=自己利益」が根底にある点で前者と共通しており、経済的な利害関係でいうところの「個人所有」という概念と通底しています。

 

ここで「通底」という意味は、通常の資本主義社会では、既述の通り、より多くの物や貨幣を「所有している」方が豊かで望ましいとされますが、ウイルスは逆で、「自分が持つ」より「持たない」方がよいとされるわけです。しかしながら、「自分にとっての利益」を中心としている点で結局、「(物や貨幣を)所有すること」も「(ウイルスを)所有しないこと」も、共通(通底)します。また、「誰か特定の個人が所有するもの」として、物も貨幣もウイルスも考えられている点で共通します。

 

まとめれば、第一に自己利益が中心であること、第二に個人所有という概念に基づいていること、これらの点で、「自分が感染したくない」と考える人も、「知ったことではない」と考えている人も結局は同じということです。

 

これを国際関係に広げて考えれば、この「ウイルスの所有」という考えの強化は、(自国の利益を第一に考える)自己利益中心主義を強めることであり、「その2」の国境強化と根底で響きながら、米中に見られるようなコロナ問題の責任の所在に関する国際的な論争をいっそう激しくする可能性を引き起こします。

 

「その7:文化の否定」は、同時に文化がもつ可能性でもあります。たとえば、日本は欧米人に比べ、一般的にシャイで人と距離を置くことが多く、見知らぬ人と会話はあまりしない傾向にあると言われています。知り合い同士でも握手まですることは少なく、さらにハグまですることは珍しい。マスク文化も以前からあり、手洗いや清掃などいわゆる「キレイ好き」と言われています。欧米人には否定的にみられることも少なくなかったこれらの文化が、感染拡大を多少とも欧米よりは抑止する可能性はありそうです。

 

もちろんこれらはもともと感染症を防ぐことを目的とした文化ではないかもしれませんが、感染症という事態と偶然に結び付いて、ポジティブに作用しうる文化としての意味が生まれたといえそうです。もしかすると、欧米においても、今後、今回の感染症によって、それまでの土足や身体接触のコミュニケーション文化が多少なりとも変わっていくかもしれません。

 

このように文化を否定するウイルスが、新しい文化や社会秩序や慣習を生んだり変えたりしていく可能性があります。実際、水道開発や鋼管の採用、塩素消毒等のインフラ整備やその他の公衆衛生は、感染症問題によって促進されたと言われています。ウイルスや感染症が、新たな文化や文明を形づくる側面があることは、環境や生物学の研究者らによって指摘されてきた事柄です※注

 

※注:文明だけでなく、ウイルスが人間への進化そのものをもたらしてきたのであり、人の遺伝子そのものがすでにウイルスと一体(ホロビオント)だという議論もある(ライアン, 2014/2014)。石(2018)もまた「生物は感染したウイルスの遺伝子を自らの遺伝子に取り込むことで、突然変異を起こして遺伝情報を多様にし、深化を促進してきた」と述べる。(ウイルスとの関係に限らず)文明の進歩自体も破壊と創造の両面から成るが、進化もまたウイルスによる破壊と創造(共生)と隣り合わせで生じるといえる。

 

 

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連載のはじめに

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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