1769年にヴォルフガング・フォン・ケンペレンにより制作された「チェス差し人形 "ターク"」

Humboldt-Universität zu Berlin, Universitätsbibliothek; HZK

17世にはガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートンが活躍して科学革命が起きており、18世紀のこの時代には啓蒙時代を経て産業革命が揺籃期を迎えていた。産業革命は蒸気機関という人間や動物以外の人工的な動力を使い、織物などの工業製品を大量に生み出したが、これを可能にしたのは時計などの精密機械の技術だった。時計は大航海時代に精度が求められるようになって大きく進歩し、スイスのアブラアム=ルイ・ブレゲなどの名工が工夫をこらして、華美で豪華なばかりか、小鳥などの小動物を動かしたり、自然の風景を模したカラクリを動かしたりする凝った仕掛けを王族や貴族のためにつくっていた。こうしてつくられたカラクリ人形の中には、人間の姿をして、楽器を演奏したり字を書いたりするものもあったが、その手順は歯車の動きを制御するカムの形で決まっていた。

 

フランスのジャック・ド・ヴォーカンソンは生物の動きを機械でどこまで表現できるかと試み、ついには餌を食べて消化してフンまでするアヒルの人形を完成させて、各地を興行して回った。現在のIT革命さながらに産業革命が進行して、それまでにない革新が起きている時期で、機械人形がさらに精密化していけばもっと高度な生き物の動きを再現することも可能ではないか、と感じる人も多かった。そうしたさなかに登場したチェスを指す人形に、人々は驚愕するのと同時に、あり得ない話でもないと感じてもいた。

 

このチェス人形は、マリア・テレジアの死後にはフランスやイギリスなどにも巡業をし、ウィーン滞在中のナポレオンやパリに駐在していたベンジャミン・フランクリンなどの有名人とも対戦して、ヨーロッパ中でターク(トルコ人)という名前で話題になった。次々にチェスの名人を打ち負かす人形に人々は熱狂し、「人間は結局、精密な機械に過ぎない」と論じる人々もいたが、当時の科学者はさすがにそれがトリックではないかと疑い、その謎を解こうとする解説本も何冊も出された。

 

この人形は結局ケンペレンの手を離れ、興行師のヨハン・メルツェルが引き継いで、19世紀にはアメリカへと海を渡った。1835年にフィラデルフィアでの公演を見物した雑誌記者のエドガー・アラン・ポーは、この不思議な人形の動きはトリックに違いないと確信し、翌年に「メルツェルのチェスプレーヤー」というエッセイを書き、ここで使われた謎解きのスタイルが、その後の『モルグ街の殺人』(1841年)から始まる彼のミステリー小説の原型になったと言われる。

 

メルツェルの死後、この人形は米国の医師ジョン・ミッチェルに売られた後に、1854年に寄贈された博物館の火事で焼失してしまったので、現在は現物からその仕組みを検証することはできないが、ミッチェルなどが書き残した資料からそれをジョン・ゴーガンという発明家が1989年に再現している。それによると、やはり机の底の部分にチェスの上手なオペレーターが寝そべっており、机の扉が閉じると出てきて、上にあるチェス盤を遠隔アームで操作していたとされている。

 

なんだ、やっぱりトリックか! ということだが、1800年頃にロンドンでの興行を見物に来ていたチャールズ・バベッジという少年は、この人形が本物のチェスを指せる知能を持った機械だと信じて、1823年には階差機関と呼ばれる、歯車を使った巨大な計算機械を組み立てようとした。バベッジこそはチューリングの理論によって電子式コンピューターができる以前に、計算機の可能性をとことん追求したパイオニアだった。彼の機械を操作する手順(プログラム)を書いたエイダ・ラブレスは、詩人ジョージ・バイロンの娘で、そのバイロンの友人のメアリー・シェリーがSFの元祖とも言われる人造人間を扱う『フランケンシュタイン』を書いていたことに、何か因果なものさえ感じる。

 

 

チャールズ・バベッジが設計した階差機関一号機

Portion of Babbage's difference engine. by Benjamin Herschel Babbage ,

printed in Harper's new monthly magazine.

 

 

つまり、産業革命によるテクノロジーの進化は、その発展の先に人間を超える機械の存在を予感させ、それが現在の人工知能論議のような状況をつくり出していたのだ。現在から考えればいくら歯車を多数組み合わせても、10の120乗もの可能な局面数があるチェスの手を、機械が瞬時に割り出すことは不可能であることは明らかだと思えるが、その壁を現在の情報テクノロジーは打ち破りつつあり、夢や妄想さえも現実のものにしつつある。

 

 

AIの先に見える人間の未来

 

最近のAIブームは3回目とされる。ダートマスの会議でAIが提唱された頃には、コンピューターが10年以内にチェスの世界チャンピオンに勝利するという楽観論を述べる学者もいたが、実際は程遠い成果しか得られなかった。1970年代後半には、専門家の知識をルールとして覚え込ませた「エキスパート・システム」というAIプログラムが、特殊な病気の発見に役立ったり地震波のパターンから油田を見つけたりして一気に期待が高まったが、その後に思うほどに応用分野は広がらずにブームは下火となり、「人工知能の冬」という言葉さえ使われるようになった。

 

チューリングは人間の論理機構をモデル化したが、その一方で脳のニューロンをモデルにした本格的な脳のコピーをつくることも考えていた。それは「子どもマシン」と呼ばれ、機械がいろいろな経験から学習して知的な活動をできるようになるモデルだった。

 

ニューロンの構造をそのまま真似た研究は、米コーネル大学の心理学者フランク・ローゼンブラットが1957年に「パーセプトロン」という名前で理論化したものが「ニューラルネットワーク」としてブームになり、1980年代にはそれが「ニューラルコンピューター」として再評価された。論理でトップダウン式に処理をする従来からのコンピューターではなく、多くの実例を与えることでニューロン同士の結びつきの強さを調節しながら機能を高めていくボトムアップの方式は、理論がわからない問題を経験で学ぶことで解決することができるという特徴があり、通常のコンピューターと計算理論的に等価であることも証明されている。

 

ニューラルネットワークの方式は論理を記述するプログラムを書く必要がないものの、多くの事例から学習するための処理に膨大な計算が必要になる。このため、ニューラルコンピューターも、簡単なパターンを区別するレベルのことしかできずブームはすぐに終息してしまった。

 

ところが21世紀になって、この膨大な計算を行うために、ゲーム機の画像処理用の計算チップが有効であることがわかり、スーパーコンピューターで数週間かかった計算を数時間のレベルで実行可能になり、犬や猫の写真をたくさん見せて区別するといった研究が実際に成果をあげるようになってきた。より複雑なモデルをつくり、膨大な機械学習を行う方式が深層学習法(ディープ・ラーニング)と呼ばれるようになり、こうした成果がアルファ碁やいろいろなAIソフトにも応用され、一気に実用化への期待感が高まってきた。

 

この方式は、それがどういう原理で成立しているのか正確にはわからない分野に応用することで威力を発揮しており、職人の勘や感情的な判断が優先する、伝統工芸やアート、天気予報や金融市場予測、人事などの不定形なデータを多く扱う分野での応用が注目されている。

 

AIが知的な機能をより発揮することで、人間の機械に対する優位性がゆらぎ、知らない間にホワイトカラーのほとんどの仕事がコンピューターに置き換わってしまうことが懸念されているが、実際は今後どんな世界が開けるのだろうか?

 

1783年にパリでチェス人形と対戦した当時世界最強プレーヤーだったフランソワ・フィリドールはあっさりと勝利したものの、機械人形(実際は中に入った人間だったが)と対戦することに言い知れぬ恐怖を感じたという。人間のノウハウを学んだディープブルーと対戦して敗れたカスパロフも、途中でパニックになり判断力を失った。チェスばかりか将棋や囲碁でAIと対戦した人々は、コンピューターが人との対戦では考えられないような手を打ってくることに、何か想像を超えた未知の存在を感じたという。

 

AIは人間のエキスパートが進化論的に最適化した技法にとらわれず、ある意味愚直にしらみつぶしにすべての可能性を探査して、人間の意識の限界を超えた世界を見せてくれている新しい知のモデルだ。もともとAIが扱っている人間の〈知能〉なるものは、きちんとした定義もない。アルファ碁が人間との対戦を放棄したように、AIが何かを達成した後は、それをAIとして意識することはなくなるような相対的な基準でしかないのかもしれない。AIは人間と敵対する存在ではなく、むしろ人間の知性の姿を鏡に映してその限界を提示し、その足りない部分を補ってくれ、あらたに人間という存在が何なのか? という問いかけに答えてくれる未来の使者と考えたほうがいいのではないだろうか。

── 次回へ続く

 

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◉参考図書・記事

『チューリング  情報時代のパイオニア』

B・ジャック・コープランド 著、服部桂訳、NTT出版、2013

現代のコンピュータの基本モデルを考案し、ナチスの暗号を打ち破り、人工生命研究の先駆者でもあった天才、アラン・チューリングは、不当な迫害を受け、謎の死を遂げる。その理論の平易な解説も交えて綴る、チューリングの決定版伝記。 >>詳細

『謎のチェス指し人形「ターク」』

トム・スタンデージ 著、服部桂訳、NTT出版、2011

18世紀に欧米でセンセーションを巻き起こしたチェスを指すミステリアスな人形タークの物語。彼はチェスチャンピオンを打ち負かし、ナポレオンと対戦し、ポーに霊感を与えた。その波乱に満ちた生涯をたどり、真実を解き明かす。 >>詳細

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