特集:ナイチンゲールの越境 ──[情報] テクノロジー、過去、未来 第2回 コンピューターが人間を超えるとき text by 服部 桂 profile

アンドレアス・メラー「マリア・テレジア」(1727)

産業革命が揺籃期を迎えた18世紀ヨーロッパでは、現在のIT革命さながらにさまざまな技術革新が起こり、人々の期待も高まっていた。そうしたなか、マリー・アントワネットの母としても知られるオーストリア帝国の女帝、マリア・テレジアが自国の技術開発の遅れを憂慮したことがきっかけとなり「チェス差し人形"ターク"」が生み出される。

「人間との対局はこれを最後とする」

 

ディープマインド社の人工知能(AI)囲碁ソフト、アルファ碁(AlphaGo)の開発者デミス・ハサビスは5月27日にこう発表した。

 

昨年3月に韓国で最強と言われる李世乭(イ・セドル)棋士との五番勝負で4勝1敗し、今年になって「世界最強の棋士」を決めるフューチャー・オブ・ゴ・サミット(中国囲棋協会・中国政府共催)で、「セドルに勝っても私には勝てない」と豪語する世界棋士レート1位の柯潔(カ・ケツ)九段と三番勝負を行って3局全勝したアルファ碁は、ついにプロの名誉棋士九段を授与されることになり、もうこれ以上人間と対戦する意味はないと宣言したことになる。

 

最近は写真から人や物を見分けてキャプションを付けたり、目的地まで車を自動運転したり、レントゲン画像から専門医を上回る精度で病気の診断をしたりと、いままでコンピューターにはできないと思われていた〈知的〉な作業をAIが次々とこなすようになったことが話題となっている。このまま進めば、これから20年ほどで7割の仕事が置き換えられるという予測が語られ、2045年ごろにはコンピューターの知的能力が人間を上回る「シンギュラリティー」という現象が起きるとも言われている。書店では『人工知能は人間を超えるか』、『AIが人間を殺す日』などと題された本が山積みになっている。

 

こうした動きを受けて、世界有数の科学者スティーヴン・ホーキング博士が「AIの進化は人類の終焉を意味する」と言い、最先端のIT企業を率いて宇宙開発にまで乗り出すイーロン・マスクが、「AIは悪魔を呼び出すようなもの」と警告を発するなど、そうした言葉を聞いて不安にならない人はいないだろう。2年程度で半導体の集積度が倍加しコンピューターの性能が向上するというムーアの法則はいまだに健在で、いずれ人間の能力はコンピューターに追い越され、ついには支配されてしまう社会がやってくるのかもしれない。

 

 

コンピューターは人工脳を目指していた

 

AIプログラムはすでに、2013年には日本の将棋ソフトのポナンザがプロ棋士・佐藤慎一四段を破っており、チェスでは1997年に世界チャンピオンのガルリ・カスパロフをIBMのディープブルーが打ち負かしている。こんな形でコンピューターが人類に脅威を与えたのは、これが初めてではなかった。

 

もともと高速な計算のための電子機械とみなされていたコンピューターだが、その基礎を築いたイギリスの数学者アラン・チューリングはまるで異なる発想をしていたことはあまり知られていない(参考:『チューリング─情報時代のパイオニア』)。数学のすべての問題は公理や定理を証明していけば解けるとした「決定問題」を唱えた大数学者ダフィット・ヒルベルトに挑み、証明できない問題があることを解明した論文を1936年に発表して、その予想を覆したことで歴史に名を遺したチューリングは、人間の論理的な思考手順を単純な機械に置き換えたモデルをつくり、その動きを使って理論を証明するという前代未聞の手法を採用した。このマシンこそが後に「チューリングマシン」と呼ばれる、生命におけるDNAの構造解析に匹敵する、現在のコンピューターの基本的なモデルになったと言われる。

 

 

Alan Mathieson Turing(1912-1954)

 

 

チューリングはなぜこんな奇抜な発想をしたのだろうか? 彼は幼い頃に子ども向けの科学解説本を読んで、人間の脳がニューロンの結合によって高度な知的活動をするという話に興味を抱いた。自閉症気味で誰からも相手にされなかったが、唯一の友だちが大学進学時に病死してしまい、心に大きな痛手を受けた。そこでチューリングは、脳の機能を抽象化したモデルを使って、生体ではない人工物によって脳の機能を再現することで、その中に親友の魂を蘇らせたいと渇望していたとも言われている。

 

チューリングは第二次世界大戦中、ドイツ軍が通信のために使っていたエニグマ暗号を解読する仕事を担当しており、手作業では何百年もかかってしまうような解読のキー探しに、ボンブという名前の論理マシンをつくり、さらにはコロッサスという真空管を使った計算機の開発にも協力していた。彼はついに解読に成功し、おかげで大戦終結が早まり多くの命が救われた(そのドラマは、昨年公開された映画「イミテーション・ゲーム」に詳しく描かれている)。

 

戦争が終わると、暗号解読の事実が知られることを恐れた英政府はこの事実をひた隠しにし、コロッサスをすぐに解体して封印し、コンピューター開発には消極的な態度しか取らなかった。世界初の電子式コンピューターとされているENIAC(1946年稼働)が開発された米国では、逆にコンピューターの成果が公開されてすぐに一般向けの利用が始まったが、ほとんどの関係者は計算機の需要は特殊なものと考えており、IBMの始祖のトーマス・ワトソンでさえ、世界で5台売れればいいと考えていたほどだった。

 

しかしチューリングはひたすら彼の求める本当の脳のモデルとしてのコンピューター開発を続け、ただの計算機械に音を出して音楽を演奏させたり、チェッカーゲームを行わせたり、ラブレターを書くプログラムなどもつくり、ラジオ番組で「コンピューターが知的な機能でいずれ人間を凌駕する」と公言していた。そして1950年には、コンピューターが人間と文字だけで会話して、その人が相手を人間と見誤るかどうかで知的な機能を持っているかを判断する「チューリング・テスト」も提唱している。チューリングはこうした機能を「機械知能」と呼んでいたが、1956年には米国でジョン・マッカーシーやマーヴィン・ミンスキーが、こうした機能に「人工知能」(Artificial Intelligence:AI)という名称を付けた会議をダートマス大学で開催し、コンピューター開発の目標の一つとしてAIが論議されるようになった。

 

チューリングや他の研究者たちが最初にAIの目標として挙げたのは、かなりの知的能力が要求されるうえに、ルールが明確で勝敗を評価できるチェスを指すソフトの開発だった(言語を理解して会話ができるという機能も大きなチャレンジだったが、そちらはチェスよりはるかに難しそうだった)。チューリングは1948年にチェスの手順を書き出した「チューロチャンプ」というプログラムをつくり、まずは自分でその手順に従って知り合いとチェスを指し、初心者には勝てることを実証していた。チェスのプログラムはその後も、AIの性能を評価する試金石として開発が進み、マックハックやチェス3.0などという名前のプログラムが人間のエキスパートと試合を進めて、徐々にランクを上げていった。そしてついに、1997年に世界チャンピオンのカスパロフを破ることになる。

 

 

250年前にあった人工知能?

 

ところが、チューリングの試みよりずっと前に、すでに人間を打ち負かす人工知能が18世紀に存在していた、としたら誰もが仰天するだろう。

 

ときは1770年の春。ウィーンの女帝マリア・テレジアの宮廷で、奇妙な人形が披露された。机の上にはチェス盤があって駒が並べられており、トルコ人の格好をしたターバンを巻いた魔術師のような男の人形が椅子に腰かけている。この人形を製作したヴォルフガング・ケンペレンが舞台の上でうやうやしくお辞儀をし、机の扉を開いて中を見せると、中はほとんど空洞だったが左の端にいくつもの歯車がつまっていた(参考:『謎のチェス差し人形「ターク」』)

 

机を回して背面から人形の衣装を持ち上げると、背中に付いた扉の中にも歯車が入っていた。ケンペレンは机の扉を閉めると、「この人形はチェスの名人なので誰かに相手をしていただきたい」と同席する臣下に呼びかけると、腕に自信があるコベンツル伯爵が名乗り出た。そこでケンペレンは机の歯車の脇にレバーを付けて、キリキリと音をたてながらゼンマイを巻き上げた。ほんの少し間を置くと、このトルコ人の人形はカッと目を見開き、左右に頭を振って観客を見渡すような動作をすると、右腕を持ち上げてチェス盤に手をやって、駒を持ち上げて最初の一手を打った。人々の間から驚きの声がもれた。人形はそのままチェスを指し続け、腕自慢の伯爵をあっという間に打ち負かしてしまった。

 

マリア・テレジアは当時としては合理的な考えをする人で、魔女と名指しされた女性を迷信だとかばったり、他国の技術動向にも興味を抱いたりしていた。宮廷を訪れたフランスの科学者が当時の最新技術を披露した際、自国の遅れを憂慮した女帝の言葉に、ケンペレンが自国の最先端の技術を見せると約束してつくったのがこの人形だった。チェスは中東から伝わってきたゲームなので、トルコ人の魔術師のような人形は、いかにもチェスの名人の姿に見えた。

 

 

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