特集:ナイチンゲールの越境 ──[ジェンダー]
文・西尾美登里/挿画・はぎのたえこ
「どうしていいかわからなかった。わからないけれども、恐る恐る母の手を握っていると、看護師が椅子を持ってきてくれた。」
──(本文より)
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小泉弘美は、太郎と同学年でラグビー部のマネージャーをしている。キャピキャピしてて、そそっかしく可愛いキャラだ。もうひとりのマネージャーで、冷静沈着な美人キャラの小柳久美子とは折り合いが悪い。
太郎も含め、ラグビー部の男子と一年生の女子マネージャーたちは、この2人の仲をいつも冷や冷やしながらうかがっている。どちらか一人にだけ用事を頼むと、その後がこじれて難しく面倒くさい。どちらか一人にだけ声をかけると、後に火の粉が振ってきそうで厄介だ。対応を間違えると、あからさまにどちらかの機嫌が悪くなる。
ラグビー部以外の男子から当初は「学年を代表する可愛いキャラと美人キャラがマネージャーだなんて、うらやましいなぁ」とよく言われたものだ。しかし2人の関係が周知された今、うらやましがられることは皆無だ。
たぶんそういう諸事情を先生も知っているし、たぶんそういう諸事情は保護者も感じている。
部員も先生も2人に平等に用事を頼み、2人に平等に声をかけ、その部員と先生の姿を保護者は安堵の表情で眺めている。女子の嫉妬はあからさまだと思う。例えば、ラグビー部の中でよくモテる文月が、迂闊にも部活以外の場でマネージャーに「教科書貸してよ」と頼んだ時には、それはもう周りの女子からキーキー言われて、それも言われたのは文月でなくてマネージャーだったりして、さらに面倒臭そうだった。
でも顔がいいやつは羨ましいよなぁ……あぁいう文月みたいに、シュッとしたハンサム顔になればモテるのか? と思った太郎は先日、眉毛を細くコンパクトにしようとして失敗し、母に「キャー麻呂みたい」と笑われ、腹を立てたままだった。
……もう腹なんて立ててないからさ、元気になってよ。母さん……。
グッドボーイ、グッドガール
ハチとクーと一緒に眠っていた。
時計は6時を指している。カーテンの向こうは明るい。『いつの6時だ?』ガバッと起き上がると、掛け布団の上のほうで寝ていたハチがゴロンと足元に転がる。テレビをつけると、見慣れない顔のアナウンサーがニュースを伝えている。『夕方なのか……』
慌てて携帯を見るが着信はない。どうやら母親は安定しているようだ。再び横になり白い天井を眺める。……染みがある。いつからこんな染みがあったのだろう。
救命センターの白い風景とアラーム音を思い出す。嫌な気分になり目を閉じる。頭の中でその音がリピートされる。母さんは今、あの音の中で寝ているのだろうか……。あの音が聞こえてるかな。
面会に行かなきゃな。でも眠っているのなら、行く意味があるのか……? やっぱり行かなきゃ。家族は自分しかいないんだから。そういえば、自転車を学校に置いたままだ……。
腹が減る……。こんなに大変な状況なのに、眠くなるし腹も減る。そういうものなんだろうか。そんなもんだろうね。そうかなぁ……。
たとえ母が眠っていたとしても、面会には行こう。
何か持っていくものはあるのかな。
とても食べれんやろうし。
体、動くようになるかな。
母さん、今後は働けるんかな。
俺、大学行けるんかな。
俺、独りになるんかな。
お金って、どうなるんだろう……。
元気になってくれるかな。
階段を踏み外すなんてよほど疲れていたのかな。誰かに突き落とされたりしたのかな……。
太郎が再び起き上がると、今度はクーが足元のほうへ転がる。犬をベッドからおろすと、太郎の足元を奪い合うように二匹がついて回る。
「もう足は臭くないやろ?」
クーがお尻をむずむずしながら、挙動不審になる。そのポーズは、散歩でウンチをしたいアピールだ。「今日は悪いけれど、ベランダでやってよ」窓を開けて外に出すと、クーは身の置きどころを探すようにくるくると忙しなく動き回る。ハチもベランダに出てクーの周りではしゃぐ。
数分すると、クーがガラス越しに太郎のほうを向き『ウンチしたよ……どう?』とドヤ顔を見せ、飛び込むように部屋へ入ってくると、首を長くしてお座りをする。
「グッドボーイ、グッドガール」
母がいつもやるように、ハチとクーの頭と首を撫でる。母さんとの日常が戻ってくるように、祈るようにばあちゃんの仏壇に手を合わせる。
* * *
病院に行くと、朔医師からの説明どおり、母の顔がまるで殴られたかのように、水ぶくれのように腫れていた。うすい瞼は、針を刺せばパンッとはちきれそうで、そのようすは、このままずっと開かないかもしれないと思えるほど重症に見えた。
普段のものとは似ても似つかない顔をした母がそこに寝ていた。頭からも両手からも首からもチューブが出でいる。頭のチューブは中が赤く、ぶら下がった袋にも血が溜まっている。
どうしていいかわからなかった。わからないけれども恐る恐る母の手を握っていると、看護師が椅子を持ってきてくれた。
母の手の感覚から、太郎はあることを思い出していた。ディズニーランドに行ったとき、飛行機に乗ったとき、花火大会のときにも、母は人ごみではぐれないように、太郎が伸ばした手を握ってくれた。太郎から手を伸ばさなくても、不安に感じたときはいつも引き上げるようにグッと手をつないでくれた。
当時のことを思い出しながら、太郎は母の手をずっと握っていた。
第5話 につづく
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政策には、経済が大きく関与する
西尾 美登里
私が小学生の頃は、子を持つ女性が社会で働くケースが今よりも圧倒的に少ない時代でした。私の母はその少数の中のひとりでした。保育園児だった私は毎朝、大好きなTV番組「ママとあそぼう! ピンポンパン」を見終える午前8時になると母に急かされて玄関を出ていました。その後の時間帯に放映されていた「ひらけ! ポンキッキー」は、病気で保育園を休んだときにだけ見ることができました。
当時の保育園児たちのお迎え時間は遅く、冬は暗い中を帰宅していました。私は幼心に、幼稚園バスに乗っている子たちをうらやましく思ったものです。「美登里ちゃん保育園行かない」と駄々をこねたことや、保育園から脱走して一人で帰宅すると捜索依頼を受けた家族が大騒ぎしていたことを、今でも鮮明に覚えています。
しかし時代は移り変わり、平成29年「国民生活基礎調査の概況」によると、今では子を持つ母親の7割が就業しています。そしてこうした大きな変化の背景に目を向けると、国の政策による影響が見えてきます。日本ではバブル期以降の財政難から、女性の社会進出を推進して税収を増加させ、一方で扶養者控除を厳しくしました。その後医療財政が厳しくなると入院日数の短縮化に着手し、障がいや病気を抱える人の療養の拠点を、病院から地域・在宅へとスイッチし始めました。
つまり、女性が社会進出で留守をする家や地域に、退院した人がどんどん帰ってくるようになったわけです。また同時に少子高齢化が急速に進んでいるため、介護を受ける必要のある人の数も増える一方です。
総務省統計局による住民基本台帳に基づく人口動態及び世帯数によると、戸建数は昭和38年まで総世帯数が総住宅数を上回っていましたが、45年後の平成20年には総住宅数が総世帯数を上回りました。今も都市部の風景ではマンション建築が目立ち、郊外や地方では新興住宅がどんどんと建っています。人口がほぼ横ばいの日本では世帯数が多くなり、結婚しない人が増え、核家族化や単身世帯化がさらに進行中です。
こうした状況の中で、親を世話するケアメンの存在に注目していくことが非常に重要です。
彼らが抱える介護困難について、私の調査と全国の介護者支援協議会のそれとで同様の結果が出ており、具体的な声として「家事の方法がわからない」「相談相手がいない」がその上位を占めていました。
また、男女の比較をしてみると、以下のようになりました。
慣れない家事や介護と向き合う生活のなかで、いかにケアメンたちが独りで悪戦苦闘しているか、そのようすが目に浮かんできます。
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