特集:ナイチンゲールの越境 ──[ジェンダー]

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©2019 Taeko Hagino

文・西尾美登挿画・はぎのたえこ

第3話 何かあれば開くようにする鞄 [連載小説]ケアメンたろう

「以前から母親に言われていたとおり、洋服棚の一番上に置かれたバッグに手を伸ばす。中身をゆっくりと確認する暇はない。」──(本文より)

 

 

登  場  人  物

 

東尾太郎

東尾太郎:この物語の主人公。県立南城高校ラグビー部に所属している高校生。あまり自分の感情を表に出さない。

 

太郎の母

九西大学病院の元看護師で、現在は同大学で看護学教員として働く。脳の出血で救急搬送される。

 

西野先生

県立南城高校ラグビー部の顧問。ラグビーをしていれば「人生、なんとかなる」と思っている。

 

田村さん

九西大病院のソーシャルワーカー。その誠実さで周囲からの信頼が篤い。母を通して太郎を幼少より知っている。

 

朔先生

九西大病院の医師。母が看護師の頃、勤務を終えるのを待つ太郎をよく気にかけてくれていた。

 



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>> 前回まで/連載のはじめに

 

 

自分しかいないんだ

 

家に帰ると、暗いリビングから犬のハチとクーが、競うように玄関の太郎に飛びかかってきた。メスのハチは、くぅくぅと甘えるような細く高い声を出す。甘え上手な女だといつも思う。オスのクーは、尾っぽをちぎれんばかりに振り続け、太郎の顔を必死に見ながら無言で何かを訴えている。じっと黙って訴える男だといつも思う。

 

「クー、どうした?」

 

太郎がクーに問いかけると、クーは冷蔵庫の横が定位置のアルミ製の水飲み皿を加えてやってきて、ポトリと太郎の目の前に落とした。

 

「あぁ、ごめん!! 喉渇いたね……。ふたりとも、悪かったね」

 

この家に次に帰るのは、母親の手術が終わってからだろう。

 

「お母さんが大変だから、ふたりとも仲良くしとくんだよ」

 

二匹の頭を平等に撫で、どっかりのドライフードと水を皿に補給する。

 

ばあちゃんの仏壇の鐘を二回鳴らし、手を合わせる。

 

「ばあちゃん よろしく」

 

浴室に行き、回らない頭を刺激するかのように、ごしごしとシャンプーをして、勢いよくシャワーを浴び、頭をかきむしった。

 

“今からどうなるのか”

“今からどうなるのか”

「なんでこんなことになるんだよ!!」

 

ふと、西野先生がタクシー乗り場で太郎に向けていた表情を思い出し、やっと状況がわかった気がした。“ひとしきり叫んだら、しっかりしなければ”と太郎は自分にいい聞かせた。

 

“自分しかいないんだ”

 

太郎の父が乗船していたタンカーが沈没して2年が経つ。事故直後の憔悴ぶりに、母まで死んでしまうのではないか……と肝を冷やした。すぐに立ち直ったように見えたが、当時受験生だった太郎はその時 “これから何かあれば、自分が母を支えて両足でしっかりと立って生きていこう……生きていくしかない”と思った。しかし、実際にそうぜざるを得ない状況に直面すると、うろたえて何もできなくなりそうな自分に腹が立った。

 

そして、理不尽にも母が何故こんなことになるのだろう? と思うとまた腹が立ち、自分で足を踏み外して転倒したとしたら、一体どれほど疲弊していたのだろうか? と想像してさらに怒りがこみ上げてくる。

 

思わず「クソッ!!」と叫びながら、太郎は拳で自分の太ももを数発叩いた。

 

風呂から上がると、ハチとクーがバスマットの上でお座りをして待っていた。自分が倒れたらこの犬たちはのたれ死んでしまうだろう。しっかりしなきゃ。父親が行方不明になった時の母親の心境も、これに近かったのかもしれない。

 

 

「死んだ場合」「入院した場合」

 

以前から母親に言われていたとおり、洋服棚の一番上に置かれたバッグに手を伸ばす。中身をゆっくりと確認する暇はない。「何かあれば開くようにする鞄」と書かれたピンク色の画用紙を剥がしただけで、すぐにそれを背負って再び九西大学に向かう。往来する車のヘッドライトが眩しい中、タクシーを止めることは容易だった。

 

病院の消灯時間はとっくに過ぎていた。手術室前の廊下はうす暗く、エレベーター前の足元と待合室のみに照明が灯っている。待合室には、ひとかたまりの親戚一同らしき人たちがテレビを見ながら待機している。会話の内容から、消化器系の内臓を複数摘出するような手術が、予定よりも長い時間かかっているようだった。

 

太郎には待合室の照明は明るすぎて、テレビの音量もうるさすぎて、他の家族たちの存在は「異物」すぎて、自身がいま背負っている心情にはつらすぎた。すべての刺激が太郎の肌を刺すように感じられ、その痛みを避けるために廊下の一角にある待合場に居ることにした。

 

咳払いの音が病院の奥まで響き渡るような廊下で待つしかなかった。待つことは、とても辛抱がいると思った。

 

そういえば、今まで自分は「何かを待つ」ということをしたことがあっただろうか。ディズニーランドのパレードだって、鳥獣戯画展の行列だって、何かを待つことが苦にならない性質だと思っていた。他人からも幼い頃より「太郎はじっと待てる子だね」と言われながら育った。でもそれはいつも、目的のはっきりした順番を待っていただけだ。先の見えない不安定な状況をただ待つということは、こんなにも時間を長く感じるものなのか……。

 

手術の同意書を読み返した。「出血のリスク」「神経損傷のリスク」「麻酔のリスク」……

 

“お母さん、死んでしまうこともあるんだろ……”

 

西野先生はソファーで横になっていた。練習試合を控えているのによく付き添ってくれるものだと思い、太郎は感謝する。しかしその一方で、自分一人で待つほうがどれだけ気楽かもしれないとも思った。……いや、もし一人きりだったらどれほど不安と焦燥感でいっぱいになるだろう……。この現実を前に、そんな想像をめぐらせる太郎のそばで何も言わず、ただいることが西野先生の優しさの表現なのだろう。

 

西野先生は部員たちがラグビーの試合に勝っても負けても、いつも何も言わない。だからきっと生徒に興味がないんだろうと思ったこともある。しかしいま、太郎はそうではないんだと確信している。たぶん西野先生は、他の生徒が同じことになったとしても、同じようにするのだと思う。

 

“この人、生徒のこと、大好きなんやな……。”

 

そんな感情を抱いたとき、持ってきた鞄の中身を確認する気持ちがようやく整った。「何かあれば開くようにする鞄」には、通帳と印鑑、健康保険書と保険証書、長財布の中に現金20万円。そして封筒が二通入っていた。それぞれの表には「死んだ場合」「入院した場合」と書かれている。

 

「入院した場合」のほうを開封する。

 

 

たろうへ

 

TO DO その①

九西大のソーシャルワーカーの田村さんを訪ね、一緒に医療限度額の申請手続をしてもらいなさい。これは医療費が一定の限度を超えると還付される仕組みを利用するための手続きです。仮にお母さんが大病をしたとき、太郎に全額の医療費が請求されて、あなたがひっくり返らないようにするためのものです。手続をしなければきっと多額の費用にうろたえることになるでしょう。すぐに保険証を田村さんに渡して手伝ってもらいなさい。

田村さんの電話番号は090−XXXX−XXXXです。

 

TO DO その②

学校にはすぐに連絡を入れなさい。

 

TO DO その③

ハチとクーをよろしく。くれぐれも火の元には確認してね。

 

 

“田村さんにも、学校にも、ハチとクーにも先手は打ってあるよ。母さん”

神様が先回りしてくれているような気がした。

 

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>> 前回まで/連載のはじめに

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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