第一回 支援と表現活動のハザマから考えうること
「支援 ✕ 表現」というテーマとの出会い
ここまで、本連載でこれから折に触れて紹介してゆく支援現場でのエピソードを綴った。これらには、いくつかの支援現場にアーティストとして、アドバイザーとして、運営メンバーとしてかかわってきたなかで感じてきた、僕の問いが一定凝縮されている。
ひとつは、支援を必要とする者がその本人が持つ(障がいなど)特性を転換させ、創作行為へと向かうときに、これまで福祉サービスとして想定されてきた通常の支援という枠ではカバーしきれないような機会づくりが必要になってくること。二つ目に、支援を必要とする者が表現した何か(造形物でも音楽でも)は、本人にとっては「作品」という意識をそもそも持っていない状況のなかで、その表現を見出す際に支援する側の立場がどのようにその当人と向き合うのか、そういった関係性の紡ぎ方が問われてくるということ。そして三つ目に、支援現場に第三者としてのアーティストが加わることが、支援を必要とする者、あるいは支援をする側の感性を刺激し、エンパワメントすることから、支援現場がその分野(障害福祉や精神看護など)やその施設(入所・通所施設、作業所、精神科病棟)の「外」を目指してゆくプロセスがどのように編まれるか、という点だ。
ここで少し、このような「支援 ✕ 表現」というテーマで活動をしてきた背景についても触れておきたい。大学を卒業し、自分の音楽活動をどのように仕事につなげていくかを考えあぐねながら職を転々としていた僕は、2004年に大阪の芸術系NPOに入職することになった。
その翌年の2005年、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」に暮らすおじさんたちの紙芝居チームの運営に関わる機会があった。野宿から畳に上がった生活保護受給者のおじさんたちの生きがいづくりをきっかけに始まった、紙芝居劇団「むすび」の活動だ。出会った当時は平均年齢76歳の8人グループで、紙芝居の前で歌やお面をつけての実演が入り、数々の小道具が飛び出す、実に個性的な表現スタイルを築き上げていた。
2005年に京都橘大学で実演された「むすび」の紙芝居劇の様子(当時、筆者が撮影編集したドキュメント映像のキャプチャー画像より)。
その作品のユニークさに感動した僕たちは、おじさんたちから紙芝居継続支援の打診を受けたことを契機に、大阪府のコミュニティビジネス事業支援のための助成金を申請し、彼らの精神的なケアと表現活動のマネジメント両方に携わるマネージャー派遣の仕組みを考えた。マネージャーをあらゆるコミュニティ同士のつなぎ目にしつつ、地域の福祉支援者、まちづくりを勉強する学生、彼らの表現にアドバイスをする音楽家やダンサーを交えた、分野越境型の新たなコミュニティを形成し、僕はそのプロセスを映像作品にするという役割を担ったのだ。
その時に感じたのは、彼らを支援する側に立つ僕たちが、彼らの表現やその人生経験から醸し出される佇まいによって、確実にエンパワメントされたということである。地域の福祉支援者たちが彼らの身の回りの世話をしてきたことは、無論重要なことであると同時に、そこに福祉とは一見無縁そうな文化的な視点、表現的なまなざしを持ち込むことによって、「支援する側/される側」という図式に横たわる「/(ボーダー)」の角度が変わることがあると実感した。
そして、いつしかこのプロジェクトのテーマは、むすびの魅力を軸とするコミュニティから生まれる「関係性そのもの」を社会包摂型(ソーシャル・インクルージョン)の表現として広く提起していくこととなり、より社会的なプロジェクトとして展開することとなった。
その後は、縁ができた障害福祉サービスを手掛ける大阪のNPOとタッグを組み、明治安田生命が障がいのある人の舞台芸術活動に助成する「エイブルアート・オンステージ」というプログラムに参加したりするなかで、ホームヘルパーと一緒に肢体に障がいのある利用者の家にお邪魔し、舞台脚本の打ち合わせをしたり、舞台で上映する映像作品の撮影などに取り組んだ。
事故で脳性麻痺が残り、発話しにくい自らの状況を十分に熟知されたうえで、その発話自体をある意味で舞台上の表現として昇華させようとするような障がい当事者の方との出会いは、僕にとって非常に大きかったと同時に、彼らととても丁寧に並走し続けるNPOの支援者の方々の振る舞いに対しても、素直に「かっこいい」と思った。
2007年、僕は大阪で文化事業をディレクションする傍ら、どうしても支援現場に携わりたい思いを抑えられなくなり、ホームヘルパー2級の資格を取得。演劇にも造詣が深い友人がコーディネーターを務めるNPOにてアルバイトを始める。普通校の支援学級に通う、知的障がいのある少年のガイドヘルパーや、肢体に障がいのある人たちが暮らすグループホームでの介助などに一年ほど携わった。
短い期間とはいえ(表現活動をすることを前提にしない)「当たり前の日常」を過ごすための生活支援の一端に触れられた経験は、芸術文化という領域と障害福祉や精神看護などのケア領域との接点、表現活動と支援行為の接点をどのようにデザインするか、といったテーマに対する関心をより深めてくれたと思う。
その後、2008年には冒頭で述べた滋賀県にある社会福祉法人グロー(当時は社会福祉法人滋賀県社会福祉事業団)との出会いがあり、障がいのある人たちが生み出す、衝動的で生々しい類い稀な造形物、舞台表現などに触れる機会が格段に増えることとなる。自ら音楽ワークショップを行ったり、僕が抱えてきたこれらの「支援✕表現」というテーマについてトークイベントの企画をしたり、書籍の編集・執筆に携わる機会を得るようになり、以後〜現在は日々各地で、はじめに挙げたエピソードのような体験を繰り返しては、思索と実践を続けている。
2010年に滋賀県社会福祉事業団(現・グロー)と筆者らが、企画した表現ワークショップとフォーラムイベントのチラシ。
また「支援 ✕ 表現」というテーマとは直接結びつかないかもしれないが、伝えておきたいもうひとつの背景がある。自分なりに芸術文化に携わる仕事をしてきた経験から、僕は支援現場との出会いとともに、まちづくりや地域振興と呼ばれる領域との接点が次第に大きくなっていった。今でいうところの「コミュニティ・デザイン」と呼ばれる仕事である。芸術祭などを通じて過疎化した地域を盛り上げたり、地域特性を生かした観光戦略を立ち上げる事例が各地で増えてきているが、僕自身もこれらの活動を続けるなかで、支援現場がその領域や施設に閉じることなく、より地域に開かれるとはどういったことか、この問いについても同時に考えるようになった。
そのように支援が開かれていく動きは、福祉や看護の領域でも、地域生活への移行やそのための地域包括ケアシステムの立ち上げについて、盛んに語れるようになっていることからもうかがえる。そして本来、支援現場とはまったく無関係な背景を持つ表現者のこの僕が、この数年の間に支援現場における多(他)分野連携の相手として仕事に携わる機会が増えていることも、時代の流れを証明しているのかもしれない。
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