イラストレーション  : 楠木雪野

[連載] なかなか会えないときだから考える コロナ時代の対話とケア ● 高橋 綾

session

「問い」を共有し、ともに「探求する」ことの意味
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今回のひとこと〜緩和ケアの現場から 田村恵子 京都大学大学院医学研究科 人間健康科学系専攻緩和ケア看護学 教授 SPACE-Nワーキンググループ

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「問い」や探求のテーマを共有する、三角形としての対話

 

しかし、立場や価値観が違う人が、一つの「問い」やテーマを見つける、分かち持つということは、それほど簡単なことではありません。議題としては同じことについて話しているつもりでも、実は見ているものはバラバラで、何かを一緒に眺め、考えるということができていない場合もあります。たとえば、治療について患者と話しているつもりでも、医療者の側はもっとも効率的で確実な治療法は何かと考えているのに対し、患者の側はどうすれば今までどおりに家族との生活を維持できるのだろうかと考えているような場合です。ですから、何かについて一緒に考えるためには、相手にとってのテーマや「問い」、相手の考えが向いていることを十分理解し、それと自分の「問い」やテーマとが重なるところを探したり、一緒に取り組める「問い」を協力して見つける必要があります。

 

このことについて、精神科医で、対話精神療法を提唱している神田橋條治さんは、患者と医療者の間の対話は、二者関係ではなく「三角形」の関係である、と言っています。通常、患者と医療者との関係は、患者の側に問題(病気)があり、それを医療者が治す、解決するという二者関係だと考えられることが多いでしょう。しかし、神田橋さんは、患者と医療者が何か一つのこと(病気とともにどう生きていくのか、という「問い」やテーマ、問題)を一緒に眺め、それについて対話し、一緒に考える関係、「患者ーテーマ・問いー医療者」という三角形をつくることが大切なのだ、と言います。

そして、患者がこの「問い」やテーマについてどう取り組んできたのか、その解決策はうまくいったか、いかなかったかなどを聴くとともに、「じゃあ、こんなやり方は、してみなかったのね?」というかたちで、医療者からも取り組み方を提案してみて「さまざまな解決策について、二人で眺めている関係、つまり三角形の図柄を、少しづつ作っていく4のだと述べています。症状を減らすために患者が薬を望むのであればそれも一つの解決策となりますが、ただしその場合もそれが唯一の解決策ではなく、「お薬飲んで、お薬飲むという解決法について、どうだったかということは、また、私と話し合いましょう」というふうに言葉をかけるそうです。

 

※4:神田橋條治『治療のこころ 第二巻 精神療法の世界』、花クリニック神田橋研究会、2004年

 

ここで言われている三角形としての対話モデルは、患者と医療者の対話にのみ言えるのではなく、対話と探求一般において重要なことなのではないかと筆者は考えています。ディベートや議論のように正否や解決策を急ぐ話し合いは、早く決着をつけるために、それぞれが正しさをめぐって考えを戦わせるという対立型、対決型で話し合いがなされます。一方で対話というのは、このような対立型の話し合いではありません。しかしこのことは、対話の目的が単に相手をよく理解し、良好な二者関係を築くだけであるという意味ではありません。対話とは、立場も価値観も違う人があるテーマや「問い」を共有し、ともに眺め、アイディアを出し合うという「協力・協働型」で問題に取り組む話し合いなのだと言えます。

 

「一人で考えるこmonologicthinking」と「協働の探求Co-inquiry」のちがい

 

「問い」を共有することによって、ともに考えること=「協働の探Co-inquiry」は始まります。筆者の専門は「哲学」ですが、そもそも哲学のような「考える」作業は基本的に一人で行う孤独な営みであり、対象に対する客観的な思考のように、自分とは切り離して考えるほうが冷静にできる、というイメージを持っている方も多いのではないかと思います。しかし「協働の探Co-inquiry」はこうした「一人で考えるこmonologicthinking」とは真逆にあるものです。

 

これまでに述べてき たように、自分一人で考えるということと、他人とともに対話のなかで考えるということは、少し異なる態度やスキルが要求されます。協働の探求のためには、自分と他人のちがいに気づき、見ているものを合わせ、考えるペースを合わせて進めていくことが重要であり、自分が何を話し、何を考えるか以外にも注意を向けていなければなりません。また、実際に自分たちが直面している具体的な問題について「問い」を立てるときには、自分とは関係ない事柄を対象として客観的に考えるのとは反対で、自分ごととして問題や「問い」にコミットして考えることが必要です。

 

また何より、具体的な問題に「問い」を立てて考えるという協働の探求は、机上の空論のように言葉の世界に閉じたものではありません。「問い」について互いの考えを出していき、そこで話されたことを実際の問題に取り組む具体的な解決策やアイディアにつなげることも時には大事です。ただし、神田橋さんが挙げている例でもそうですが、対話と探求のなかでは、一つのアイディアや解決策は絶対の最終案ではなく、一つ解決策が出たからといって、対話と探求の関係が終了するということではありません。解決策を実行に移してみて、その結果をいっしょに眺め、また探求を進めることが必要です。ここでは、あるアイディアや解決策がうまくいかない、ということも、そのアイディアが悪かったということを超え、何がうまくいかなかったかに学び、考えることで対話と探求をつづけていく材料となりえます。

 

ときどき、「対話や探求には答えやアウトプットがないのに、そんなことをして何の役に立つのか」と訊かれることがあります。しかし先に述べたように、すぐに話し合いにアウトプットを求めることは単純な問題には有効ですが、複雑かつ厄介な問題には適切だとは言えません。対話や探求はこうした厄介な問題について取り組むための方策であり、急いで一つの答えを出そうとせず、まず「問い」を立て共有すること、そこからお互いの考えを理解し掘り下げていきますが、それをもとに問題に取り組む具体的なアイディア(答え)に落とし込むという場合もあります。ですから「対話や探求には答え・アウトプットがない」というのは正確ではありません。

 

ただし協働の探求のなかでは、ある解決策が出たとしても、それは「問い」についてともに考えていく全体のプロセスの一部にすぎず、そこで対話と探求は終わらないため、対話と協働の探求とは答えがないのではなく、答えを出すことよりも、ともに考え続ける関係を続けていくことを重要視する活動である、と言えるのではないかと筆者は考えています。筆者個人としては、患者と医療者の対話や探求も、一つの解決策(治療法)を決めて終わりではなく、患者さんそれぞれの「病気とともにどう生きるか?」という「問い」と探求に、最後まで付き添う営みであってほしいと願います。

 

 

 

 

 

 

 

医療現場では、医療従事者は患者の健康上の問題を明らかにし、その問題を迅速に解決することが求められます。このプロセスは、看護では「看護過程」と言われており、私たちは学生時代からそれぞれの患者に応じた看護過程が展開できるように教育を受けています。このため、私たちは患者の「問題 problem」の明確化は得意ですが、今回のテーマである「問い question」を立てることには慣れていません。

 

本連載でも何度か紹介されているSPACE-Nプログラムでも、「問い」をたてるセッションがありますが、参加者、進行役共に毎回苦労しています。しかし、高橋さんが述べているように、どう「生きていきたいか」「どう生きていくのがよいことか」というような患者や周囲の人の価値観や考え方が絡むような問題については、患者がどんな「問い」(考え)を持っているかについて話し合うことが重要です。

 

では、どうすればよいでしょうか。私は、本連載の「session④」で紹介された哲学者の道具箱(Good Thinkers Toolkit)を念頭において対話することが、初めの一歩だと思っています。そして、現場においては、神田橋先生の「患者と医療者の間の対話は、三角形の関係である」という考えが具体的で分かりやすいと思いました。

 

Aさんという女性からの電話相談の場面を紹介します。

 

Aさんの相談は「主治医からこのまま予防的に抗がん剤の服用を続けるか、再発の兆しがみえた時点で抗がん剤を再開するか、という2つの治療法を提示されたが、どちらがよいのかわからず悩んでいる」という内容でした。お話を伺い、こちらがよいと断言できる治療法ではなく、Aさんが悩むのも当然かなと思いました。一方、Aさんは治療歴が長く、いつもなら悩みながらも自分で決断する方でしたので、今回はどうして悩んでいるのだろうかと疑問を感じました。そこで、私は、Aさんが捉えている治療のメリット・デメリットについてもう少し詳しく質問し、どうしてそう思うのかについても尋ねました。するとAさんは「このところ体調よく過ごせているが、もし今回、治療をしないことを選択して病状が進行すれば後悔すると思う。だから調子がよくても抗がん剤は継続するのがよいのだろうか。でも、体調がよいのに抗がん剤を飲むのはかえって体に悪いと思う」。と考えておられるようでした。

 

私は、「Example:例えばどういうこと?」「Counterexample:でも、こういうこともあるよね?」「True:本当にそうなのだろうか?」を念頭において、Aさんと対話を進めました。そしてAさんに「現時点では、抗がん剤は飲みたくないって思っているのですね。そう思っているのであれば、無理して飲まなくてもよいと思います」と伝えました。すると、Aさんは「私もそう思っていたけど、決められなくて。誰も答えてくれなくて」「主治医のこと信じていいのよね?」と気持ちを語りました。さらに対話を進めると、Aさんは主治医を信じたいと思っていましたが、抗がん剤を飲まないという選択をした結果がんが悪化すれば命にかかわることであり、死を免れないかもしれないという不安から、主治医を信じてよいのだろうかと悩んでいることがわかりました。

 

私はAさんの主治医とは面識もなかったので「信頼できるかどうかの判断は難しいが、Aさんが主治医を信頼したいと思っているのであれば、その気持ちを大切してはどうか」と提案しました。そして「これからも迷うことがあれば、一緒に考えるので連絡してほしい」と伝えました。Aさんからは「相談してよかった。こうして一緒に考えてもらえると安心です。これでしばらくは大丈夫です」と弾んだ声が返ってきました。

 

このようにAさんの悩みの前提には、相談のはじめには予想もしなかった「主治医の信頼」があることが明らかになりました。そして、そもそも「主治医」とは?「信頼」とはという2つの「問い」があることがわかりました。もちろんわかったからと言って、Aさんの悩みが簡単に解決できるわけではありませんが、「問い」を共有し、共に探究することができ、これからも共に考えていこうとする関係づくりの基盤につながったと思います。

 

私は普段から、相手にお話しを伺いながら「それってどういう意味なのか?」「どうしてそう思うのか?」と、問答していることがよくあります。こう表現すると、なんだか理屈っぽいなとか、こだわりが強いのかなと思われてしまうかもしれません。もちろんこだわりはありますが、それよりは「あなたのことが知りたい、もっと理解したい」という思いが強く、ついつい質問が多くなってしまうのです。「問い」を共有し、共に「探求する」のはとても難しいことのようですが、その本質は、お互いに了解しあい、一緒に引き受けるという関係づくりであると思います。皆さまも是非とも、問答にチャレンジしてください。

 

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>> この連載について/予定

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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