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③ Intellectually Safe:知的に脅かされていないこと
近頃は、いろいろなところで対話の重要性が言われているせいか、カウンセリングや自助グループ等の苦しみを抱えた人との対話だけでなく、会社などの組織のなかでの対話などでも、「心理的安全性psychologically safe」が大切と言われたりすることもあります。ただ、ジャクソンさんの対話におけるセーフティの特徴的な点は、心理的・感情的なセーフティだけでなく、「知的なセーフティ」について言及されているところです。
「気持ちの面で脅かされていない」というのは、理解がしやすいのですが、「知的に脅かされていない」とはどんなことなのか、すこし想像がしにくいかもしれません。けれども、少し考えてみると、私たちが感じたことを言葉にして、他人に伝える、ともに考えるという知的活動をする時、他人から否定されるかもという不安以外にも、それを妨げるものはたくさんあるのではないかと筆者は感じています。
学校でのこどもとの対話の場合は、自分のいいたいことを言うというよりも、正しいことや先生や大人が期待していることを言わなければならないというプレッシャーを感じているこどももいます。大人になると、今度は立場や役割などが出てくるため、やはり、正しい答えや立派なこと、役割としての建前など、「言わなければならないこと」を言うというふうになってしまい、一個人としての自分が感じていることを言えない、ということもあります。
また、相手の反応が気になるだけでなく、自分のなかでもバリアがあって、言い出しにくいこともあります。特に自分の弱みとなることを人に言わないといけない場合や、相手にとってネガティブなことをあえて伝える場合には、まずは自分のなかのハードルを乗り越えないといけないかもしれません。学校でも医療現場でも、教師や医療職の説明に対して、「わからない」「ちょっと待ってください、もう少しゆっくり説明してください」ということは、なかなか憚られますし、空気を読むことをよしとする日本の文化のなかでは、他の人が全員賛成しているのに「私はそうは思わない」と主張することはかなり勇気が必要です。
Intellectually Safeとは、言わなければならないことを言うことや、言いにくいことが言えない、ということがなるべく少ない状態、一個人としての自分が感じていること、考えていることを、他人に率直に伝えられること、言いにくいことでも、お互いにとって大切なことなら、自分と相手を信頼して言いあえる関係のことを指すのだろうと筆者は考えています。
しかし、患者と医療者という関係では、いくら医療者が、なんでも話してほしいと思い、そういう雰囲気づくりをしても、患者さんのほうで「不満を言っては医療者に申し訳ない」「他人である医療者に弱みを見せられない」などと身構えてしまって、言いにくいことまで言ってもらえる信頼関係を築きにくい場面もあるかもしれません。精神科医の中井久夫さんは、患者が言いにくいこと、治療に対する不満や不足を言いやすくするために、投薬や治療について「”苦情”を言ってくれることが最大の”協力”です、そうでなければ、私は間違ってしまうかもしれません」と声かけをすると言っています。
言いにくいことを指摘することがやってはいけないことではなく、”協力”と言われると、それではそれを伝えられるように努力してみよう、と思えるかもしれません。治療や関係の滑り出しに、小さな苦情や困りごとを言ってもらえる信頼関係を築くことができれば、言えなくてため込んだ不満が後で爆発する、というようなことも防げそうです。
また、このことに加えて、私たちは意外と言葉をうまく使えておらず、自分が何を感じているのか、それをどう言葉にして相手に伝えるのが適切なのかがわかるまで待たず、とっさに浮かんだ言葉を相手に投げつけてしまって、後で「もう少しちがう言い方をすればよかった」と後悔するというようなこともあります。この最後の点は、次回、アサーションという考え方を通じてもう少し考えてみますが、対話に必要な「自分が感じていることを、適切に、率直に相手に伝える」ということは、簡単なように見えて意外に難しい、ということを筆者はさまざまな人々との対話を通じて学びました。
対話における「安心・セーフティ」には、聴く側の態度や場づくりも重要ですが、言いたいことを適切に相手に伝えるためには、伝え、話す側のなかでも、すこし練習が必要だったり、ハードルを乗り越えることが必要な場合もあります。対話における「安心・セーフティ」のためには、他人を信頼し率直であるということも重要ですが、自分が何を感じているのか、今の状態にいちばんフィットする言葉は何かに気づいているということや、自分が感じていることに対して率直、正直ということも含まれるのではないかと思います。
「会話」が「対話」に変わるとき
私は長年、急性期医療を担う病院でホスピス緩和ケアに携わらせていただいていました。しかし、この数年は病院でもなく自宅でもない「第三の居場所」ともいえるいくつかの場で活動しています。それは、がん体験者とご家族・市民・医療従事者らが集うコミュニティだったり、今年度から勤務させていただいているがんや難病患者のためのホスピス住宅だったりします。
読者の方には、この「第三の居場所」が、どんなところなのかイメージしにくいかもしれません。ひとつ病院と大きく違うのは、私がそれまで交わることのなかった地域の医療職や介護職、ボランティア、一般市民とともにチームづくりを始めたことです。
今回のテーマ「なぜあの人は私に心を開いてくれないの?」は、このチームづくりの中で実感した問いかもしれません。地域で出会う人々は、それぞれ異なる背景・経験を持ちつつ、同じ場で仕事を始めます。最初は互いに遠慮する空気が流れつつも、業務を行う上で手順を決めたり情報交換するといった会話は成立しています。
そんな中、少なからず意見の違いを感じることもあって、なぜ自分とは違うのか、その人の心の奥にある前提や価値観まで知ることはまだできません。でも私と相手との違いに関心を寄せ、会話を重ねていくうちに、単に業務上のことだけでない、その人の核心にふれるような「私的には」「ホントのところ」を知ることができるようになり、そんなとき「会話」が「対話」に変わる瞬間というものを感じます。
たかが掃除、されど掃除……
例えば日常の些細なことですが、私たちのホスピス住宅では、共用部分の掃除を自分たちで行っています。しかし、人それぞれ掃除のやり方や順番が違うことで問題が生じました。一見、「なぜ、そんなことでもめるの」と思われるでしょう。しかし、それぞれが普段から自分の家庭で行っている掃除のやり方にも共通の順番などありません。
そこで、私はこのことで頭を悩ませていた介護管理者に廊下で出あったときに、「たかが掃除、されど掃除やね」と自分の思いを伝えてみました。すると、その人や近くで会話を聞いていた介護士、看護師が大爆笑し、皆が足を止め緊張せずに掃除についての話し合いが始まりました。
やがて「なぜ掃除に手順が必要か」「何のための掃除か」という話し合いになり、「同じやるなら仕事はきっちりやるべき」「皆で気持ちよく働きたい」など、それぞれが大切にしていることがわかってきました。すると、以前は互いに「他人の手順に納得いかない」だったのが、「それはそうだ」と折り合えるようになり、自分たちで最低限のルールを新たに決めることができました。
ケアに迷いが生じたとき
利用者さんのケアについては、こんなことがありました。原疾患の進行によって衰弱していく患者さんに対してご家族から積極的な治療を求められたときに、自分たちもどうしていいか迷いが生じ、対応があいまいになっていることがありました。そこで、私は皆がそのことをどのように考えているのか、同じ勤務のスタッフ数名にカンファレンスで話し合ってみないかと持ちかけました。すると「それは大事ですよね」という反応があり、意見を言ってもらえそうだったので、担当看護師に口火を切ってもらい話し合いが始まりました。
それぞれの意見を出し合うと、最初のうちはどうしても「患者さんが苦しむので気の毒だ」「家族は(病状を)わかっていない」といった見方になりがちです。しかし、話し合いを重ねていくうちに各自の経験から得た家族観がみえてきます。「(進行が早く)家族の気持ちは当然ではないか」「患者さんも含めて家族全体で考えるべき」「家族が後悔しないことが大切」「後悔はつきもの」「患者さんの苦痛なく、家族の希望にも沿えることがないか」といった対話を通して、私たちはこの家族をどのように支えるかを考えることができました。
相手の心を知ろうとするより、まずは自分の感情に正直に
振り返ってみると、このような私の体験は、高橋さんの言う「自分が感じていることに率直に、正直に」なることから始まっていたのではないかと思います。新たな場で、またコロナ禍で「はじめまして」から関係性をつくるとき、相手の心を知ろうとする前に、まずは自分の感情に正直になること、自分のなかにある「なぜ」と感じる気持ちを大切にすること、わからないことがあれば「教えてください」「一緒に考えたい」と言えそうな場のセーフティを意識することが、信頼関係をつくる近道なのではないかと思いました。
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