「平均」を世に広めた男
帰国の翌年、フローレンスは「数学がしたい」と言い出した。そのきっかけを与えたのは、統計学者アドルフ・ケトレの存在だ。ケトレは1796年にベルギー・フランダース地方の町、ヘントで生まれた。7歳で父を亡くし、苦労の末に地元の新設大学で数学講師の職を得ている。その後、パリに留学して最先端の天文学を学んだケトレだが、帰国しても祖国にはまだ天文台がなかったため、身に付けた知識を人間の諸問題にあてはめてみた。その研究をまとめて書いた書籍『人間について』が大ヒットする。この本には人間社会のさまざまなデータが分析・整理されており、そこで多用されていたのが「平均」という計算方法であった。
「平均」は天文学が発祥だったと言える。天文学者は、天体観測を何度も行って得た記録から「平均」を計算することで「真の値」を求めていたのだ。ケトレはこの平均計算を、身長や体重、心拍数、呼吸数や筋力といった人間の身体的なデータに加え、犯罪率や死亡率といった社会の問題にも応用してみたのである。
統計学で大切な考え方に「層」がある。データを地域や季節などの「層」に分類して整理すると、それまで見えなかったことが明らかになってくる。そうして彼が見いだしたものには、たとえば12カ月別の出生率、病院別の死亡率、あるいはいくつかの監獄での死亡率の比較まである。肥満判定の指標、BMI(Body Mass Index)もケトレの「発明」である。彼は天文学における万有引力の法則の式を真似たに違いない。分子に体重、分母に身長つまりは距離の2乗を置いて計算するのがBMIだ。ケトレはその値の「平均」を最もよい身長と体重のバランスとしたのである。
『人間について』はヨーロッパ各国で翻訳されて、平均や比率による地域比較がブームとなる。「女の子より男の子の出生率が高い?」「あの町の犯罪率はどうだろう?」といった人々の関心がこうして生み出された。つまり、ケトレは「平均」という計算方法を天文学の世界から引っ張り出し、一般の世の中に広めたのである。この手法を学問として成立させたケトレは「統計学の祖」となった。
使命感、そして看護師への夢
フローレンス・ナイチンゲールは「修学旅行」で集めた各国のデータを、ケトレが広めた統計学の方法で分析してみたかった。彼女はこの頃から貧しく恵まれない人々のために役立ちたいと思うようになっていた。そして25歳の時に「看護の仕事に就きたい」と家族に打ち明けるのだが、大反対をされてひどく落ち込んでしまう。心配した家族は「気分転換」を勧め、知人の夫妻と一緒にローマでひと冬を過ごすことになった。ここで知り合ったシドニー・ハーバートという若き政治家が、やがて彼女の運命を変えることになる。
1851年、夢を捨て切れないフローレンスは家出同然に家を飛び出し、ドイツの看護訓練施設に入所する。すでに30歳を過ぎていた。彼女はフランスの病院を巡って看護の現場も学んだ。そして帰国後にロンドンの看護施設長の仕事を与えたのが、シドニー・ハーバート夫人だった。
1854年10月、運命の時が来る。イギリスが参戦したクリミア戦争の前線から、タイムズ紙の特派員によるレポートが送られてきた。その内容は「戦地では医者が不足し看護師もいない。兵士たちは満足に治療も受けられない」というものだった。このニュースを知ったシドニー・ハーバートはすぐに考えた。「この重大な問題を解決できるのは彼女しかいない」と。そして同時にこの新聞を読んでいたナイチンゲールもこう思った。「これこそ私の天命だ」。こうして当時、戦時大臣を務めていたハーバートによって、彼女はイギリス政府が派遣する看護師団の団長となり、クリミアの戦地に向かったのだ。
多くの人々が抱くナイチンゲールのイメージは「博愛」であろう。実際、彼女は戦地で40名ほどの看護師団を率いて献身的な活動を行った。 夜にランプを灯して見回りをする彼女の影にキスをする兵士もいたという。傷ついた男たちから天使のごとく崇拝された逸話を聞いた人々は、まず「やさしさ」という言葉を思い浮かべ、そこから今日に至る彼女にまつわる「イメージ」がつくられていった。
しかし、彼女の功績を歴史的に決定づける本当の意味での活躍は「クリミア戦争後」にあった。戦地からの帰国の船上、死ななくてもよかった多くの若者たちのことを想い、彼女は「彼らの命は救えたはずだ」と強く後悔する。兵士たちが亡くなった主な原因は、ひとえに陸軍が衛生状態を軽視していたことにあった。戦場での負傷が原因で亡くなる兵士よりも、収容先の陸軍病院での境遇が原因で死んだ兵士のほうが圧倒的に多いという事実を、彼女は身をもって知っていたのだ。
19歳ですでにヴィクトリア女王と面識があったナイチンゲールは、帰国後すぐに女王と会い、調査委員会の設置を懇願する。国家の軍隊の失敗を指摘できる人物は女王しかいなかった。勅撰委員会でこの恐るべき真実を明らかにし、陸軍の衛生状態を改善して兵士の命を守らねばならない。「犠牲者」をこれ以上出してはならない。偽名まで使って船上の人となった彼女には、こうした強い使命感があった。
伝えたかった真実
ヴィクトリア女王の勅撰委員会の報告書は1858年に出版された。ナイチンゲールはその中で、陸軍における衛生状態の欠如について統計学を駆使し客観的に提示した。彼女が最も伝えたかった真実は以下の表に集約されている。
野戦病院における原因別死亡者数。
[ 文献 1 より]
この表で彼女は、死亡者を原因別に分類している。統計学でいう「層」に分ける作業である。「院内感染が原因で死亡した人」「負傷が原因で死んだ人」「その他の原因で亡くなった人」といった層別にデータを整理すれば、ただ一つにまとめられた死亡率よりも問題点がはっきりする。
たとえば1855年1月の死亡者数を見てみよう。この時、クリミアに滞在していた兵士の総数は月平均で32,393名である。同じ月に負傷が原因で死んだ兵士の数は83名。これに対し伝染病が原因で死んだ兵士の数は、なんと2,761人にも達していることがわかる。
彼女はさらに客観的な比較ができるように「人数」を「率」に変換する。ここでまさにケトレの統計学が生きてくる。そして最後にグラフを描いた。人間の心に響くように、当時としては画期的なカラーの円グラフを考案したのである。数字ばかりが並ぶ表では、よほどしっかりとデータを追わないとその意味がわからない。原因別に死亡率が色分けされた彼女の円グラフは、直感的に彼女の伝えたい真実を語ることに成功している。
2つの円グラフ
"Bat's Wing"[ 文献 1 より]
これがナイチンゲールのカラーの円グラフ(報告書の現物より)である。ここには2つの時計が描かれていると考えるとよい。まず右の「時計」について考えてみよう。短針が進む1時間ぶんを、1カ月に当てる。ここでは9時の位置が4月だ。10時だと5月、5時なら12月で、6時の場所は翌年の1月、8時は翌年3月となり、一周すれば1年だ。時計の12個の目盛りを12カ月に見立てるといううまいやり方だ。
右の「時計」では1854年4月から1855年3月を示し、左側の「時計」では1855年の4月から1856年3月を表している。これらの目盛りごとに中心からの長さで「死亡率」が表され、それぞれの距離の違いが死亡率の大小となる。こうしてすべての月で死亡率をプロットし、点をつないでその内部を着色する。「伝染病」なら緑、「負傷」なら赤、「その他」の原因なら黒である。
たとえば、1855年1月の死亡率を見てみよう。右の「時計」の6時の位置がそうだ。「伝染病」が原因で死んだ兵士を表す緑が突出していることがわかる。一方、戦場での「負傷」が原因で亡くなった兵士を示す赤はとても小さく、「その他」の黒は極端に小さい。このように、数字や文字だけで説明するよりもグラフがあれば直感的に事実を伝えられる。
ちなみにこの画期的な円グラフは、コウモリが翼をひろげた形に見えるので「Bat's Wing(こうもりの翼)」と呼ばれている。
ナイチンゲールのカラー円グラフは、実は2種類存在する。ヴィクトリア女王への報告書を作成する一方で、彼女はもう一冊、自身を著者として報告書を書いた。「Rose」と呼ばれるもう一つの円グラフはその中に描かれている。女王への報告書に載せられた「Bat's Wing」では、死亡率の大小が円の中心からの距離としてプロットされていたのに対し、この「Rose」では各月ごとに扇形で表現された部分における「面積」の大小によって、死亡率が表されている。
中心からの距離で考える「Bat's Wing」では、点を結んでできる「こうもりの翼」の内部の面積が大きく感じられ、死亡率が誇張されるのではないか...。ナイチンゲールが「Rose」を描いた理由の背景には、あるいはそんな批判があったのかもしれない。
"Rose"[ 文献 4 より]
「ケース」と「全体」
ナイチンゲールは女王への報告書の中から、円グラフなどビジュアル性の高い図版が数多く掲載された「付録第72」のみを小冊子として2,000部印刷し、ロイヤルファミリーや大臣、国会議員などに配布した。折り込み図表も付いた28ページほどのこの小冊子も、人々の心を動かすのに役立ったことだろう。
こうしてナイチンゲールは、陸軍における衛生状態の悪さをヴィクトリア女王の勅撰委員会の報告書を通して暴露した。その結果、兵士を取り巻く生活環境は大幅に改善され、統計学を政策に活用する彼女の手法は高く評価された。彼女は王立統計学会のフェロー、米国統計学会の名誉会員に推挙されて、まさに統計学者となったのである。
統計学では、人間一人ひとりのことは考慮しない。「花子さん」「太郎君」など、名のある個人については考えない。つまり個人を無視して全体を見る。それが統計である。こうして全体を見渡す視点があってこそ、社会全体を見据えた「政策」を生むことができる。その力はまさに「政治力」であろう。悲惨な状況にあった戦地(現場)に赴き、人間一人ひとりの「ケース」と真摯に向き合ったナイチンゲールは、さらに統計学によって「全体」を見通す力をも得たのである。
ヴィクトリア女王勅撰委員会の活動は、ナイチンゲールにとって、その後の行動のための大きな「学校」とも言うべきものだった。歓迎ムードをあえて避け、ドーバー海峡の船上で死ななくてもよい若者たちを想い決意したこと。それは、一人でも多くの人々に戦場での真実を伝え、二度と同じ悲劇を起こさせないことであった。ナイチンゲールにとっては、ヴィクトリア女王への報告書こそが、その後のすべての活動の「原典」なのである。
ナイチンゲール自身の名義で書かれた、
もう一つの「報告書」。[ 文献 4 より]
引用・参考文献
(※ 文献1〜4は著者所蔵)
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丸山 健夫 まるやま・たけお
武庫川女子大学情報教育研究センター長・生活環境学部情報メディア学科教授。京都大学農学部卒業。京都大学博士(農学)。米国ルイジアナ州立大学客員准教授、武庫川女子大学文学部教授などを経て現職。専門は情報学(統計学・メディア表現・科学史)。著書に『ナイチンゲールは統計学者だった!─ 統計の人物と歴史の物語』(日科技連出版社)『筆算をひろめた男─幕末明治の算数物語』(臨川書店)『「風が吹けば桶屋が儲かる」のは0.8%!?─身近なケースで学ぶ確率・統計』(PHP研究所)『ペリーとヘボンと横浜開港―情報学から見た幕末』(臨川書店)など。
著者サイト http://yy.org
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