療養環境は理念を体現するものであるという観点から、独特な病院建築のあり方を見せる倉敷中央病院。院内のランドマークとなっている温室には亜熱帯植物が生い茂る。(撮影:坂元永「ナーシング・トゥデイ」2002年10月号「建築の風景」より)
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本家イギリスをはじめ、ヨーロッパで一世風靡した「ナイチンゲール病棟」。日本ではどのように受け入れられたのでしょうか? 病院建築の専門家は「日本には厳密な意味でのナイチンゲール病棟は一部を除き、ほとんど存在しなかった」と言います。その数少ない例外が倉敷中央病院(岡山県)です。1923年の病院設立以来、ナイチンゲール病棟形式だった第一病舎はたびたび用途変更され、その都度改修されてきましたが、今もなお設立当初の面影をうかがうことができます。
編集部
倉紡中央病院は1923(大正12)年6月2日、翌年竣工予定の第八病舎(隔離)と第四~第七病舎を残して開院した(1934年に財団法人倉敷中央病院と改組)。設立者の大原孫三郎はその動機について、次のように語っている。
「(一紡績)會社が、病院を造つて而かも是を一般世間に公開すると云ふのは、餘りに出過ぎた事のようにも考へられますが」、一万人近い従業員とその家族の健康を保証することは勿論、一般世間の人々の健康を保護することが望ましい。また第二に、「先年當地方に流行性感冒(大正初期のスペイン風邪)の非常に流行つた時、〈中略〉労働者の人々の家庭にあつては、醫師の手が達かずして、生きて居る内に治療を受くる能はず、所謂死後診断と云ふ悲惨な状態であつたのが少くなかつたのを見聞」し、実費診療所にするつもりが各方面(県医師会)の反対で普通病院(総合病院)となったために、「設備其他が一層完全になつた事は當病院の爲めには或は幸福であつた」※「 」内はすべて文献1)より引用。( )内は筆者註。
大原は、京都帝国大学(現 京都大学)総長の荒木寅三郎と同大学医学部教授の島薗順次郎に諮り、「日本には慈善病院・研究病院は立派なものがあるが、理想的な診療本位の病院がないから、その代表的なものを造ること」の提案を受けた2)。また、院長として津市立病院長の辻緑の推薦を受け、1919(大正8)年に倉敷紡績株式会社(以下:倉紡)に入社させ、続いて産婦人科の徳岡 英、外科の波多腰正雄が加わり、倉紡建築課と共に病院計画の調査研究に当たらせた。その結果、病院の根本理念は「近江八幡のヴォーリズ経営の結核病院」3)(近江療養院)、施設は当時最新の「慶應病院」4,5)を参考にしたという。
設計は倉紡建築課の隅田京太郎で、大原が自ら指図し、1921(大正10)年10月におおよその平面計画が決定した。翌年3月、出向から戻った武内潔眞(電気技師)が建設課長兼電気課長に就任。5月の着工後も修正検討を続けた。当時の設計図に記載のない各棟入口のレンガ造防火壁や、武内の日記に検討経緯が残る当時の最新設備が残されていたことなどが、それを物語る。
開院当時の状況を伝える倉敷時報1)や中国民報6)には、病院の運用方針として以下のことが記されている。
全体配置計画
診療部門と病棟部門とがそれぞれの玄関をもち、各玄関から北に幹線廊下が伸び、幹線廊下から東西に診療部門や病棟が翼状に枝分かれするパビリオン型の平面計画は、当時の病院では外来各科の診療部門を経て病棟につながるのが常であった中、大変画期的であり、当時最新の設備を誇った慶應義塾大学医学部附属病院(1918年、設計:曽禰中條建築事務所、図1)7)と同じで、手術室の平面形は瓜二つである。事務部門も入る病棟部門玄関の平面形と外観は近江療養院そのものである。
図1 慶應義塾大学医学部附属病院配置図(1919年)(新谷肇一:近代日本の病院建築に関する計画史的研究, 博士論文(九州大学), p.172, 1988. に加筆)
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病棟は、平屋建ての第一~第三病舎が連なる幹線廊下の延長線上に、2階建ての第四~第七病舎が片廊下または中廊下をもってつながる。その東に別棟2階建ての第八病舎(隔離)が建つ。整備された設備をもつ炊事室と洗濯場は中央化されている(図2)。
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図2 倉敷中央病院配置図(創立期)(日本建築学会編:建築設計資料集成 福祉・医療, p.110, 丸善, 2002)
病棟型とナイチンゲール病棟
ナイチンゲール病棟の原則を、①十分な通風を得る空間と十分な日照のための両側採光窓、②看護単位の形成、③大部屋、とするならば8)、第一病舎(図3)と第三病舎がそれに当てはまる。第二病舎は個室4室と16床の大部屋1室が北に廊下をもつ片側採光である。
図3 倉敷中央病院第一病舎(創立期)(写真提供:クラボウ)
現在残る第一病舎は、入口に看護婦室、患者物置(ロッカー室)と配膳室をもち、病室を通り抜けた東端に休養室(デイルーム)、洗面所と便所がある。病室は開放できる型ガラス戸で3室8床ごとに区画されている。南外壁面から1.5m内側に控えて柱列が立ち並び、ベッドはそれより内側に配置され、北側のベッドも床頭台を隔てて外壁面より内側に配置される。南面の窓は、上下に換気用の回転窓付きの全面引き違い窓、北面の窓も回転窓付きだが、気密性の少しよい上げ下げ単独窓が4床に5ヵ所つく。
クリミアよりも緯度が10度南にあたる倉敷で、ナイチンゲール病棟の南北軸が東西軸に変えられ、冷房設備のない当時に夏の日射を避けた配置は「家の作りやうは、夏をむねとすべし」の知恵であろう。床高は地盤面から0.9m、外壁面床下に約3m毎に外側から開閉でき、気密性が高い0.6m角の鉄製換気口が設けられている。夏は開放して床下通風を、冬は閉鎖し、病室等のラジエーター(中央式暖房放熱器)に加えて、木造床下の蒸気還り管に保温材を巻かずに放熱させ、床暖房としている。これは、紡績工場の知恵であろう。洗面所と便所は、床は鉄筋コンクリート造、水洗式でしかも暖房付き。当時、公立で最新だった大阪市立刀根山病院でも暖房は重症患者の病室にしかなかったが、近江療養院には全病床に中央式暖房があったという報告9)の上を行く。驚きである。
8床を3室つないだ両側採光の病棟形態は、参考にされたという慶應病院にも、近江療養院にも見当たらない。当時の病棟形式を記した持ち合わせの資料7,10)にも類似する平面形は見つからない。両側採光8床3室がつながる平面形は「明治37、38年戦役広島豫備病院建築図竝改正意見図」の「伝染病院軽症室平面図〔モデルプラン〕」7)にあるが、看護室が病室数棟をまとめた大病棟を受け持つものとなっており、24床の小看護単位を形成していない。また、医師が派遣された京都帝国大学病院に両側採光が見いだせるのは、1934(昭和9)年以降である7)。
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辻野 純徳 つじの・よしのり
1957年大阪大学工学部卒。株式会社藤木工務店、倉敷レイヨン株式会社、倉敷建築研究所(現・浦辺設計)を経て、有限会社ユー・アール設計を設立、現在同社相談役。1970~1977年および1981~1986年大阪大学工学部非常勤講師、1976~1981年神奈川県立看護大学校看護管理コース非常勤講師(看護は前田マスヨ氏に師事)。設計担当に倉敷中央病院、武蔵野赤十字病院、浅香山病院、北九州市立医療センターなど。