辰巳 アメリカとフィリピンは戦争の前から仲が良くて付き合いがあった。だからそのような設備も用意ができた。日本はそうした関係性を理解するための調査すらしていなかったのよね。プールの建設だって現地で目にしている日本人もいたはずなのに、そのことと島には水が一滴もないという事実が結びついていなかったんですね、きっと。
一体どうして、そのようなものごとの見方の不足が起きてしまうのか。昔の武士たちはそういう点では非常に賢かったはずです。殿様たちは各藩を守るためにとても注意深かったのに、明治以降そういうことがだめになってしまったのはなぜなんでしょう。
川嶋 本当にそうですね。長い歴史を振り返れば私たちは「治山治水」の考えをもとに国土の保全を行ってきたはずなのに、今は植林もせずに木をどんどん伐採し、崖を切り崩して新しい住宅をつくったりしています。そうして経済活動優先でやってきたことが、例えば先だって西日本で起きた大豪雨での被害にもつながっているのではないでしょうか。
東日本大震災での支援もそうですが、被災地の救済よりも軍事費やカジノなどに多額の予算をつぎ込もうと考える政府のやり方に、あの戦争の始まりのときと同じ危惧を感じます。とても怖いというか、もし再び繰り返すようなことがあったら私たちの子孫に申し訳がたちません。
辰巳 そうですね。学問は発達しているのだけど、そうして勉強を重ねている人の力を取り入れるのが下手。この国の何がそうしたことを妨げているのかな。どうして最もいい方向を探すのが、こんなに下手になったんでしょう。
生活を交換して、互いに理解し合う
辰巳 先生ね、私、韓国の人に言われたことがあるんです。日本人はその季節季節で丁寧に食べることを大事にしているけれど、私たちは季節をしっかりと先どりして食べていくのよって。あちらは気候がきびしいでしょ。だから春を過ぎると、暑い夏を迎えるような食事をする。秋には寒い冬を乗り越えられるような食事をとり始めるということですね。それは賢い考え方です。
具体的にどのような工夫をしているのか実はまだ知らないんだけど、例えば夏には米をどのように食べていますか? 汁物はどうやってつくりますか? という話を聞いて、女同士そういうところから友達になっていくことで、韓国や北朝鮮の人々ともうちょっと仲良くなれると思うのね。
川嶋 長田弘さんの詩集に『食卓一期一会』(晶文社、1987年)というのがあって、こんなことが書いてあります。「ユッケジャンの食べ方」という詩ですが、
悲しいときは、熱いスープをつくる。
むね肉・カルビ・胃壁・小腸。
牛モツをきれいに洗って、
水をいっぱい入れた大鍋に放りこむ。
ゆっくりくつくつと煮てスープをとる。
肉が柔らかくなったらとりだして
指でちぎる。
……と、料理の方法がていねいに記してあって、最後に、
ユッケジャン、大好きなスープだ。
スープには無駄がない。
生活には隙間がない。
と書かれています。
辰巳 いいですねえ。こういう詩などをきっかけにして、韓国の女性たちのスープのつくり方、ご飯のつくり方、それから漬物のつくり方について習うといいですね。そういう付き合いができたらいいな。川嶋先生がぜひその受け皿になってほしいわね。
川嶋 私は、ソウル生まれですからね(笑)。幼い頃にいただけなので直接的なつながりはもうないんですけど。ただ、お漬物の味だけはよく憶えていて、今でも師走の年中行事で毎年キムチを漬けていますよ。
辰巳 食べ物をめぐってさまざまな交換をして、いろんな人と仲良くできたらいいのよね。他にも例えば日本の浴衣地をお送りして、あちらの民族衣装にアレンジしていただくとか、生活のやり取りをするというのがとてもよい気がしますよ。それなら国際問題にも抵触しないしね(笑)。
辰巳氏考案のすり鉢は、鉢の口径を広げ、すり目を鋭くしたことで力を入れ過ぎずにすることができる。すりこ木は、先端をすり鉢との接点が多い球状にすることで、動作が軽減される。
食は一代限りじゃない
川嶋 先生のお母様、辰巳浜子さんは戦時中の食糧難にもかかわらず、いろんな工夫をされて家族の食を守られましたね。有名なお話としてはパン・ド・カンパーニュ>>★5のこととか。
辰巳 どうしてああいうものを、すっとつくれたのかねえ。不思議な人でした。材料を見てあっとひらめいてくるのよね。ある日、大切な配給の小麦を粉屋で挽いてもらってくると、台所の板場に座ってその粉の中に手を入れ、何度も何度もこんなふうに手で粉を扱っていたの。そうこうするうちにふと思いついたように、まず塩と油を粉に揉み込み、それから水で混ぜて厚手のお鍋で焼いたんですね。厚さにして7センチ、直径が20センチあまりのパン・ド・カンパーニュですよ。それを防空壕に保管しておいて、家族みんなでずっと食べていたの。
川嶋 これが、そのときのお鍋ですよね。
辰巳 そうそう。そのお鍋を母が買ってきたときのことは忘れないわ。「今日は清水の舞台から飛び降りちゃった」ってね(笑)。
川嶋 高かったのね(笑)。
辰巳 そうね。でも母はこれでありとあらゆるものをつくってくれた。牛肉の塊を手に入れたときは、ローストビーフをつくって保存食にし、何日もかけてみんなで食べたわ。
川嶋 私の家族が敗戦時に中国から引き揚げてくるときも、母が大量の牛肉を買い込んできて、大きな鍋で砂糖と醤油、生姜を入れてすごい時間をかけて煮たんです。私はアク取り係で1日中鍋のそばにいて、煮しめに煮しめたそのお肉を背負って引き揚げ列車に乗りました。逃げるように帰るときに、どうしてこんなに手間ひまかけてつくった重いものを持たなきゃいけないのかって思ったんだけど、道中それが私たち子どもの重要なタンパク源になったんですね。
私ね、先生が「食といのちに対する考えは一代で決まるものではありません。私の母や父、そのまた両親から受け継がれてきました。とくに母・浜子が私たち3人の子どもと戦中戦後を生き抜いた体験は、我が家の食に対する考え方を決定づけ、いまの私を形づくったのです」(『辰巳芳子のひとこと集─お役にたつかしら』前出)とご本に書かれていて、本当にこの「食は一代限りじゃない」ということを伝えていかなければならないと思っています。
辰巳 それは教育の問題ですね。例えば10歳の子どもに「あなたはもう十にもなったんだから、自分のいのちを守るためにこういうことや、ああいうことができなければならない」と、学校が教え、親も教える。そういう教育がないですよね。もっとあっていいはず。
そもそも、いのちがなぜ大切なのかを、それぞれが自分自身でよく考える必要がありますよ。私がいつもいろいろなところに記している言葉を、最後にご紹介しておきましょう。
─ 食に就いて ─
「いのち」の目指すところは
「ヒト」が「人になること」「なろうとすること」
この命題に向けて「ヒト」が心することは、
「食べもの」をつくり 食すということは、この在り方を尊厳することである。
手は熱く足はなゆれど
われはこれ塔建つるもの
── 宮澤賢治の遺稿「疾中」より
<おわり>
< 編 集 部 注 >
★5 パン・ド・カンパーニュ:ライ麦粉や精製度の高くない小麦粉を使い、大振りにつくられたパン。素朴な外観と味わいにパリ市民が故郷の味を思い出してパン・ド・カンパーニュ(田舎パン)と呼んだ(◀)。
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