───
───
───
震央
震度6強〜7
震度6弱
震度5強
震度5弱
(資料:気象庁)
はじめに
日本DMORT設立経緯
一般社団法人日本DMORT(Disaster Mortuary Operational Response Team:災害死亡者家族支援チーム)は、2005年4月のJR福知山線脱線事故において、遺族へのケアが十分できなかったという反省を踏まえ「日本DMORT研究会」として発足。研究会では、大規模災害訓練や養成研修会を開催し、災害現場に派遣できる人材を育成したのち、伊豆大島土石流災害(2013年)に3名を派遣。次に熊本地震災害(2016年)に2名を派遣しましたが、研究会では他機関と連携を取れないことが障害となったため、2017年7月14日に一般社団法人を設立しました1)。
日本DMORTの役割とは
日本DMORTは、家族支援のための特別な訓練を受けたメンバーによって構成されます。大規模な災害、事件、事故では、傷病者が病院に運ばれることなく死亡確認されることもありますが、この場合、死亡者の家族は、突然最愛の人を亡くすという経験をしながら、医師からの説明を受けることもできず、大きな悲嘆を背負います。そのような状況に寄り添い、支援するためのチームがDMORTです。
被災地の遺体安置所での活動
2024年1月1日16:10、能登半島地震が発生した際、私は、初詣に出かけた都内の神社にて参拝の列に並んでいました。そこへ、家族から「石川県で震度7の地震が発生した」という知らせがあり、参拝後すぐに帰宅。テレビの中継で、住宅の倒壊状況や死傷者数などを知りました。何とか早く現地に向かいたいという思いでいると、本部(吉永和正理事長)から派遣決定の知らせがあり、被災地に向かうことになりました。
5日早朝、東京から看護師2名と業務調整員1名で1台のワンボックスに同乗し被災地へ出発。金沢市から被災地までの道路は、いくつもの亀裂や段差があり、マンホールが浮き上がっている場所もありました。通行不可の区域や、片側交互通過による渋滞もあり、活動現場に着いたのは14時間後の20時過ぎで、電気も水道も途絶え、トイレも使えない環境の中で車中泊となりました。
遺体安置所で活動開始
私たちは、6日早朝から遺体安置所で活動を開始しました。遺体安置所とされた旧中学校の体育館には、およそ20体のご遺体が棺に納められ、受付順に安置されていました。私たちは遺族(以下:家族)が身元確認に訪れた際に、少しでもきれいな顔で対面できるよう、1人ひとりにたくさん話しかけながら清拭させていただき、女性にはうっすらとお化粧を施すこともありました。亡くなった方に話しかける様子は、滑稽に見えたかもしれませんが、目の前にいるのはお亡くなりになった方のご遺体であって死体ではないため、心を込めて接したいと考えていました。
家族が身元確認に来られたときは、警察官とともに立ち合いました。棺や納体袋のファスナーを下げると、最初に見えるのがお顔です。きれいに清拭したお顔を見て「顔がきれいだから、苦しまなかったのね」と家族に安堵してもらえました。また、納体袋の中のビニールが破れ、胸元が見えそうな女性は、そっと白いタオルで胸元を覆いました。看護師として当然の配慮ではありましたが、女性警官の方から「勉強になりました」と言っていただき、あらためてご遺体に大切に接することの重要性を感じました。
突然の別れによる悲しみからご遺体にすがって泣く方、ふらついて倒れそうになる方がいます。そのようなとき私たちは、体を支えたり、そっと背中や肩に手を添えたりすることもあります。その際は、両肩に手を当て「辛いですね」とゆっくりと声を低くして伝えるようにしています。時には、理不尽な別れに怒鳴る方もいらっしゃいますし、じっと一点を見つめている方もおられます。
悲嘆の表出の仕方はさまざまであるため、家族との距離・立ち位置は特に気を配る必要があります。近づきすぎず離れすぎず、ひざまずく、立ったまま話しかける、目線に気をつけるなど、場面に応じて配慮しています。
やまざき・たつえ2005年まで都立病院にて、救命センター看護師および災害対策担当として活動。現在は執筆や講演等を行う一方、救援活動にも積極的に参加している。山﨑絆塾代表/医学博士/一般社団法人日本災害看護学会前理事/一般社団法人日本災害医学会前理事、評議員/特定非営利活動法人災害看護支援機構初代理事長、現理事/認定特定非営利活動法人災害人道医療支援会監事/日本フォレンジック看護学会代議員。