被災者の遺族に寄り添う 能登半島地震における日本DMORTの活動 山﨑達枝 一般社団法人 日本DMORT 理事 四天王寺大学看護学部 准教授

震央

震度6強〜7

震度6弱

震度5強

震度5弱

(資料:気象庁)

この度の令和6年能登半島地震で被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、お亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみ申し上げます。この記事では、日本DMORTの令和6年能登半島地震被災地における活動を報告し、本活動における筆者自身の経験を踏まえ遺族への対応のあり方を考えます。

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遺体安置所での家族への対応

看護師として肩または背中に手を当てること、つまりタッチングが効果的かどうかも、場面に応じた判断が必要です。今回の活動で、家族へのタッチングを控えた、家族対応2例をお伝えします。

 

1例目は、夫を亡くされた40代前半くらいの妻でした。最初に面会にきたときは棺の中の夫を直立不動でじっと見つめているだけでした。「お顔をきれいにさせていただいたとき『とっても優しそうな方だな』と思いました」と話すと、一言「優しかったです」とお答えになりました。私はそれ以上声をかけずに、出口まで歩調を合わせて見送りました。適切な言葉が見つからないときは、無理に言葉を探すより、ただそばにいることも大切だという考えからでした。

 

後日、夫を引き取りに来たときも棺に手を置いたまま言葉を発することはありませんでした。葬儀社の車に棺が納められても静かに見送っていました。涙一つ見せない気丈な姿で急性期の茫然自失状態で極めて重いストレス状態にあると感じたため、最後に目を見て「ご自身のお体を大切になさってくださいね」と伝えました。最後まで触れることや手を置くことはできませんでした。

 

車に向かって歩く妻の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、最後に一礼をしました。「発見されるまでもたくさん泣いたと思う、これからつらかったら我慢しないで泣く場所を見つけてたくさん泣いてね。きっとその涙があなたを強くしてくれますから」と、小さくなっていく車を見ながらつぶやくと、涙がこみ上げました。本当は、言葉や手のぬくもりを望んでいたのではないかという後悔もありました。

 

2例目は、父親と一緒に来られた20代後半の男性です。妻と母親を亡くされました。警察官が検案書を見ながら死亡原因などを伝えると、父親は大きな声で「あのときにもっと強く外に出ろと言っていたら。俺はもう……なぁお前はどうなんだ……」と悔しそうに机を叩いていました。息子さんはじっと前を向いて「親父、俺は大丈夫だ」と一言話されました。最初、私は2人の間にひざまずいていましたが、少し父親の方に寄り添い、タッチングの効果を期待して斜めからひざに手を置きました。息子は背筋をまっすぐ伸ばし、前の一点を見つめていました。何が起きているのかまだまだわからない、この現実が受け入れられないという様子でした。また、父親を支えなければという責任から、毅然と振る舞っているようでした(あくまでも見た目です)。若い男性なので、あえて触れることはしませんでしたが、どう接するべきだったのか、正解はわかりませんでした。

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やまざき・たつ2005年まで都立病院にて、救命センター看護師および災害対策担当として活動。現在は執筆や講演等を行う一方、救援活動にも積極的に参加している。山﨑絆塾代表/医学博士/一般社団法人日本災害看護学会前理事/一般社団法人日本災害医学会前理事、評議員/特定非営利活動法人災害看護支援機構初代理事長、現理事/認定特定非営利活動法人災害人道医療支援会監事/日本フォレンジック看護学会代議員。

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