第十回:「空気」に言葉を
与えること 言葉に頼らないこと
─ コロナ禍における障害福祉現場の
「自粛」をめぐっての一報告 ─
page 1
page 2
緊急事態宣言発令前の2020年3月下旬より、レストランの営業は当面自粛している(この記事が公開された6月現在は再営業中)。
「自粛」か「萎縮」か
緊急事態宣言が発令されてちょうど1週間が経過した4月15日の午後。この日は僕のファシリテートのもと、音あそびとアトリエ活動を行った。利用者さんに好きな図鑑、カタログなどを選んでもらい、紙と色鉛筆、クレヨン、マーカーなどを準備して、絵を描いてもらった。あわせて、小物楽器を中心に机の上に配置し、好きな楽器を鳴らして音遊びを行った。絵を描きたい人は音を聴きながらペンを動かし、楽器に触れたい人は、自由に楽器を変えながら演奏を行う。約60分の内容で、うち休憩を10分設けた。
利用者さんには自粛をされて通所できない方も増えるなか(全14名のうち、この日は半数の7名だった)、彼ら彼女らは普段とは違う雰囲気を敏感に感じ取っていた(不安感)。また、行動の自由度も制限されるなか、施設の生活スペースである上階フロアだけにとどまっていては、気分転換ができない(ストレスの蓄積)。そういった状況を踏まえ、館内でとりわけ開放的な雰囲気があるレストラン・スペースが営業休止だったために、有効活用しようと考えた。
そこでワークショップを行うことで、利用者さんの心身的な負担を解消するプログラムづくりに努めたわけだ。また、レストラン・スペースは見通しが良いうえにフロアが広いため、いわゆる「三密」を避けながらも、見通しをもって職員が利用者の支援を行える環境として適していると考えた。また実施の際は利用者さん、スタッフともどもマスクを着用し、直接支援に携わる利用者-スタッフ間の距離に関しては支援の性質上限界があるものの、可能な限りのソーシャル・ディスタンシングを行い、窓を開けるなど換気も徹底した。
プログラムが30分ほど経過した頃「事件」は起きた。区の担当者より呼び出され、「自粛をしている状況のなかで、音も聞こえているし、外に丸見えなので、近所の方から異様な光景にうつる。もっと自粛した活動をしてもらわないと困るので、ロールスクリーンを閉じて窓も閉じてほしい」という旨の指摘をうけたのだ。
プログラムの現場責任者として僕は「ただこれは、日中の通常のプログラムなので、音の問題があるのであれば反省し改善をするが、外に見えることの何が問題なのか?」という問いかけをしたところ、「近所の目がある。ただでさえ自粛なのだから」という同様の旨の回答を得て堂々めぐりに。プログラムの進行上、これ以上議論を続ければ、利用者さんの活動が中断されると考え、指導のとおり、ロールスクリーンを半分ほど降ろしご近所からの視界を遮り、かつ窓も最低限の換気にとどめる範囲で一部を開けて活動を継続した。
さて、しかし「自粛」とはそういうことなのだろうか。なぜなら利用者さんにとっては、こここそが生活の一部として必要だから事業を継続しているのであり、かつこういった表現ワークショップはわれわれにとっては日常茶飯事のことなのだ。「近所に見えるのは問題であり自粛すべきだ」と言われると、「利用(通所)の自粛」を超えて、利用者さんの「生活の質の自粛」にまでつながるのではないか。
もちろん、実際に行動の自粛はしている。調理やカラオケなど経口感染、飛沫感染のリスクの高いものは避け、かつ彼ら彼女らが楽しみにしている送迎車による近隣ドライブも、車内が三密になるので当面見送っている。また接触を伴いやすいダンスのプログラムなどは、講師と一緒にZoomを活用した遠隔ワークショップ※の検討も重ねている。それでもさらにこのような指摘をされてしまうと、われわれは活動するうえで自粛を超えて「萎縮」せざるをえない。
※緊急事態宣言発令下において実施してきたワークショップ(Zoomを活用した内容も含む)の様子については、愛成会品川プロジェクトのFacebookを参照。
その後は、区から文書による注意書がわれわれ法人宛に届き、「事業改善命令」へと発展した。二往復にわたり文書を通じてやりとりをしているなかで、区が一貫してこだわっているのは、「区民からの目」だ。とにかく、区の施設としての趣旨は「外出の自粛に努めている区民が多いなか、区内の多くの施設が利用休止となり、ここのレストランの営業も休止しているにもかかわらず、区民が利用を制限されているこの空間で、音を出し、自由に利用している様子を見たら不快に思う人もいる。だから地域住民に迷惑をかけないことがまず大切である」というものだ。
区の理屈はもちろん理解できる。しかし、ここには「利用者本位」という発想が決定的に抜け落ちている。5月上旬現在、区に直接クレームが来たという報告は受けていないが、仮に「あんなことやめさせろ」とクレームが来るのなら、「福祉サービスが必要な方々に向けて、規模を縮小しながらも継続して事業をしているんです」と堂々と伝えればいいのではないか。
音の問題だけであれば、こちらにも責任があり(エレクトリックアコースティックギターをアンプに繋いで小音で増幅はさせていたが、決して爆音ではなかったと判断している。しかし音に関してはかなり主観の問題なのでデシベル計測などで基準がない限り難しい)今後しっかり対応をするつもりで、そのことは承知し、反省の意も表している。しかし、問題の根深さは「見えないようにすべし」という点に集約されると、僕は考えている。
「空気」の支配を「言葉」にする
昭和期の思想家 山本七平※を持ち出すまでもなく、日本人は「空気」の支配に極めて敏感だ。「KY」という言葉も然り、日常生活のいたるところに見えない同調圧力の網が張り巡らされ、コロナ禍では「自粛警察」に代表される動きとして、より一層、「空気」の支配が顕在化している。
※1977年に文藝春秋より出版され1983年に文庫化された氏の『「空気」の研究』は、日本論・日本人論において度々参照される名著。現代の日本では「空気」が「絶対権威」のように驚くべき力を奮う状況を分析した。
政府が自粛要請をする相手は「標準的な国民」であり、そのことを世間ではあまり疑うことなく「みんな」と呼ぶ。この「みんな」は実は極めて拘束力がある概念で、「みんな我慢しているんだから」というように悪意なく、むしろ「善意」としてすら使用される。その裏側で、「その“みんな”とされる集団に属するとされているこの“私”においては、その個別のケースは(身体的/精神的に)辛い問題なのだが……」という感覚は、なかなか言い出せなくなる。
(行動の)自由を制限された人たちのなかで、それ自体がかなり過酷な体験になりえる人たちは確実に存在する。「家で過ごす」ことが相当に難しい(強度の)行動障害を持った人たちがいて、「他人と接触する」ことでその人の生命が支えられている医療的ケアが必要な方もいる。また、わかりやすく知的や身体に障害がなくとも、家族を含めた人間関係にとどまれずに、各地を漂うように生きるしか術がない人たちも多くいる。
だからこそ世の中にはさまざまな合理的配慮が必要なわけだが、「緊急事態」はその緊急性ゆえに、下手をすれば「みんな頑張っているんだから!」「みんな我慢しているんだから!」という形で、かえって「標準」へと世界が引き寄せられていく危うさを持っている。このことを忘れてはならないだろう。なぜなら、この「標準」への流れは、一人ひとりの多様性を尊重する、ありのままであることを認め合う「福祉」の理念とは逆行するからだ。
ここまで書いた上で、改めて僕は行政批判をしたいわけではない。理由はもうおわかりの通り、行政も含めて「空気」に支配されている中では、単に行政批判したところで何も変わらないからだ。問題はより深い。緊急事態宣言発令下における活動の「自粛」に際しての明確な線引き・ルールがないにも関わらず、価値判断(これはありか? なしか?)が求められる具体的なシーンがあった際に、担当者レベルの主観(無意識下で「空気」の圧力を感じている)であるにも関わらず、あたかもルールがあるように振舞い、あるいは、仮にルールが無ければ「常識」という極めて曖昧なルールを盾に、判断をしてしまっていること自体に根の深さがあるのだ。
つまり「システム」が曖昧にも関わらず、その「曖昧さ」ゆえに、アンシステマティックな判断が入り込む余白を生み出し、その結果が「権力(=システム)」としてまかり通るというアンビバレントな状況こそが、「日本的な空気」の象徴なのだろう。
であるならば、まずするべきことは、さまざまな立場が並存することを客観的に見つめた上で、「空気」をこのように「言葉」として記述してゆくことから始めるしかない。そしてわれわれスタッフとしても、もっと日頃から近隣との信頼関係を築きながら「空気」に対して別の「空気」で上書きしてゆく必要がある。
利用者さんは「ここ」に居る、そして彼ら彼女らはいつもどおりに、こうしてそれぞれの個性を存分に表現しながら「いま」も安定的に暮らしている。その風景・メッセージを「不快」と思わせるのではなく、こんな状態でも変わらない日常があることを「希望」と思ってもらえるように、日々、発信を続けてゆかねばならない。そのうえで、利用者さんやご家族、地域住民、そして行政といった異なる立場同士が互いの視座を共有できるように、「対話」※を地道に続けるしかないのだ。
※経営学者 宇田川元一氏の近著『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』(ニューズピックス)では、「対話」を「新しい関係性を構築すること」と定義している。アサダも同様のニュアンスにおいて「対話」という言葉を使っている。
施設の近隣を散歩する利用者さんとスタッフ(2020年3月17日実施)。
現場に息づくのは「未整理な言葉 ≒ 表現」
ちょうどこの一件があった時期から、個人的にZoomでラジオ番組をスタートした。この連載タイトルにあやかって「ラジオ超支援?!コロナ編」と呼んでいるが、ここでは、さまざまな福祉現場で働く人たちとの対話を通じて、「生きづらさ」が一般化しつつあるこの状況で自由に意見を交換することを目指し、少人数の参加者とチャットを通じてやりとりをしている。
ラジオをやろうと思ったのは、ダルク女性ハウス代表の上岡陽江さんの存在が大きい。長年、薬物依存症やDVのサヴァイバーの方々とともに居場所を形成してきた上岡さんが言及したのは、このコロナ禍という未曾有な状況の中で「自分たちの生きづらさを、ちゃんと説明できないしんどさ」が立ちはだかっているという点だった。
彼女は以前から、想像を絶するような暴力や性被害に立ち会ってきた人たちはその体験を「整理された言葉なんかで語れない」と話していた。だからこそ、言葉にだけ頼らず、音楽や美術やダンスなどを通じて、「表現」をしていかないと、上岡さん曰く「やられちゃう」※のだと。よって定期的に表現ワークショップを行い、ここでは何を言ってもいいし、言わなくてもいい、つまり「説明」をしなくていい(理屈に頼らなくてもよい)という状態こそが「安全」であるという状況を拵えてきたのだ、と。
※アサダがパーソナリティを務めていたKBS京都ラジオ「Glow生きることが光になる」(放送期間:2013年10月〜2018年3月)での、2015年12月04日(金)放送分、第114回上岡陽江・坂上香『表現と居場所の関係 生きづらさを現す別の仕方』(2/2)での発言。番組バックナンバーで聞くことができる。
もちろんダルク女性ハウスのメンバーさんと、われわれの施設の利用者さんを同じ地平で語ることはできないだろう。しかし、ここの利用者さんも「整理された言葉」を扱い、この状況を「説明」することは決して得意ではない。そもそも言葉を主なコミュニケーションの手立てとしていない人も多い。しかし、そのことが問題なわけでは決してない。彼ら彼女らが言葉だけでなく、身ぶりや表情を含めコミュニケーションしていることを汲み取れるようになることも含めて「支援」であり、その対話をより深めるために、さまざまな「表現」を編み出すのも「支援」なのだ。
われわれスタッフはその環境づくりを行うことこそが、実は公衆衛生的な意味だけではない「安全」を築き上げていることに自覚的になるべきだろう。前述したように、区民の目があるところで「自由」に楽しそうに絵を描いたり、演奏していることは不謹慎に見えるのかもしれない。しかし、翻ってこの環境を作ることが彼ら彼女らにとっての広義の「安全」へとつながっているのだと、強調したい。
表現は、個々人を「空気」の支配から「自由」に開放するだけでなく、一方でその場の雰囲気を生み出すこと自体が「安全」へとつながることがある。つまり、巷でよく議論されているシステムに周到に管理された「安全」と、市民の自律性に基づいた「自由」の狭間に橋を架けることが、「文化」という領域ではできるのではないかと、思うのだ。
最後に。まとまらないまとめに代えて
今回は、かなりアクロバティックな論旨を伝えているのかもしれない。一方で、「現場に漂う“空気”を“言葉”にすべし」と言い、もう一方で「“言葉”で整理できない状況に着目すべし」と述べてきた。しかし、実際に「整理された言葉」も「未整理な言葉としての表現」も、現場にはどちらも必要なのだ。
より厳密に言えば、「現場から」(from)には「言葉」が必要であり、「現場にて」(at)には「表現」が必要であり、atにおける「表現」の継続がやがて、fromの「言葉」を鍛えることにもなり、fromの「言葉」の限界のなかで、atな「表現」に立ち返ることもあるだろう。つまり、循環しているわけだ。
6月以降もまだまだ「自粛」は続くであろう。このタイミングでこうした原稿を公開することで、各地の現場が風通しよく、今だからこそ無理なく楽しくサヴァイブするための思考の一助となればとても嬉しい。