外に出ていろんな人と出会ったり話をすることに対して、不安がなかったわけじゃない。自分の経験してきた過去は、自分にとっては必要なプロセスだったと思ってはいても、世の中ではあまりよく見られないだろう。そう考えた谷さん。しかし、それでも関わろうと思ったのは、展覧会の主催者が社会福祉法人(グロー)であることも知って、その「福祉」というバックボーンがあるゆえに、ここに集まる人たちも自分の背景に一定理解を示してくれるのではないか、そう感じたからだ。
実際にボランティアに関わった際も、「失敗したらどうしよう」という不安はあった。ある日、会場で焚いていたストーブの給油の際に灯油を溢れさせてしまったことがあった。「やばい!建物に染み込んだらどうしよう」とあたふたし、担当スタッフに電話をしたら「全然大丈夫ですよ〜じゃあこうしましょうか」と失敗をちゃんと受け容れてくれたという。谷さんがここで学んだのは、何もかも気負わなくていい、周囲と相談して任せ合って進めればいいという心構えだ。他のボランティアの姿勢からも学んだことがある。積極的に来場者に語りかけるボランティアもいれば、そうでない方もいる。それぞれのスタイルで接し、自分が作品を観て感じたことだけを徐々に説明すればいいんだ、と感じたと言う。
また谷さんは、アール・ブリュット作品との出会いをこのように話している。
作品を観て初めにパッと思ったのが、作品を創ってはる過程とかを映像とかで流してはる作品もあるんで、それを観ていると、ああ、この方たちって自分のそのままの姿を周りの人たちに受け容れてもらっているんやなってのが、すごく感じられたというか。それを家以外の場所でってなかなか感じられない、家族との関係以外でなかなか感じられないと思うんですけど、なんて言うかな、それを作品を通してこっちにもそういう気分にさせてもらえるっていうか。そうですね、その辺がすごく。ありのままが観られるし、ありのままを受け容れてもらえるような感覚になって。まぁ世の中になかなかそういう場所はないと思うんですけど、自分のなかでそれがボランティアの側で入ってる自分もなんかそれを感じられるっていうのか、それで居られる場っていうのが、すごく自分のなかで経験させてもらってきたことやと思います。
(KBS京都ラジオ「Glow 生きることが光になる」第198回:2017年7月18日放送より)
谷さんのこの指摘からは、「支援」という行為の奥深さを考えさせられる。アール・ブリュットの魅力を発信するこの展覧会の運営をボランティアとして支える。そしてその支える経験から、作品を通じて(障がいのある)作り手の存在に触れ、その創作風景に身につまされるような思いを持つ。自分も「ありのままでいい」と思う経験を得ることで、展覧会をサポートする側にいる立場が逆にエンパワメントされる状況が、ここでは起きているのだ。
現在谷さんは、生きることにしんどさを覚えひきこもった経験を持つ仲間とともに、生きづらさを抱える自分たちが生きやすい世の中づくり、地域づくりに従事している。当事者経験から来る生の言葉、メディアを通じた情報でない直の言葉で、当事者やその家族、支援者に接する。そこで何かを伝えることができるのならば。少しでも世の中の役に立ちたいとの思いから活動されているらしい。精神保健福祉センターで支援されたことがボランティア活動という誰かの役に立つという支援へとつながり、そこでアール・ブリュットに「支援」され、そしてさらなる支援行動へとつながり……、といった幸せなサークルがここにはある。
『アール・ブリュット☆アート☆日本』シリーズでは毎回、ヴォーリズ建築として地域に愛される旧八幡郵便局を、ライブラリ・インフォメーションセンターとして開放している。
支援する/されるの「間」に
こそ
改めて、この展覧会を通じて実現しているのは、新たな地域福祉のカタチなのではないだろうか。その特徴は、誰が支援しているのか支援されているのかわからなくなるような、むしろその人と人との「間」にこそ多方向なコミュニケーションが凝縮され、心地よいけど適度な緊張感もある空気として表現されるような、そんな場の在り方、と言えるだろうか。
振り返れば糸賀一雄の実践に始まり、グロー理事長の北岡たちが信楽青年寮などで行ってきた、知的障がい者が施設から地域へとその生活や就労を移行させていく活動。コミュニケーションが深まれば深まるほど「障がい者」としての○○さんは、(本来実に当たり前だが)「個」としての○○さんとしか言いようがない存在へと出会い直されてゆくような、そんな地域という場。そしてその「出会い直し方」のひとつとして象徴される表現活動を、福祉の文脈を超えて世に伝えること。さらに、その伝えることに関わる活動自体が、別の誰かの居場所を生み出す可能性があること。
個々の(そこにだけ関心が向かいやすく、かつ世間ではマイナスと捉えられやすい)属性を超えて向き合える場は、誰にとっても必ず必要なものだ。それは障がいの有無に限らない、誰しもが抱えるある種の生きづらさを、直接語らずともその人と人の「間」で感じ取りながら、自分の「次」の可能性を仄かにそっと摑み取る場。このことは、次回以降書いてゆく大阪の「NPO法人kokoima」で活躍する看護師たちの実践からも如実に感じられることだ。
最後に、グロー法人本部企画事業部副部長の田端一恵の、NO-MAの運営とボランティア活動の関係を振り返るテキストを紹介したい。
本事業はボランティア・スタッフにとっての居場所づくりの意味合いもあったが、私たちNO-MAスタッフにも同じ効用があるということを最後に述べたい。県外出身者が多い私たちNO-MAスタッフは、文字通り地域で孤立しがちな人である。会期中、ボランティア・スタッフから寄せられる日誌のエピソードや直接立ち話で聞いた話をNO-MAスタッフ間で共有しては、その人を思ってほほえみ合う、そんなことを繰り返すたびに自分たちは確かにここにいるのだと実感できた。このように、すべての物事には双方向の働きが生じるという基本を押さえることを「誰かのための支援」や「誰かのための居場所づくり」を今後も考えていく私たちの肝に銘じたい。
(社会福祉法人グロー『みんなの居場所となる美術館を目指して NO-MAとボランティア・スタッフの204日間』 P37より)
さてさて。全4回にわたって「地域福祉の実現に並走する美術館運営という“支援”」と題し、滋賀県のボーダレス・アートミュージアムNO-MA、その運営母体の社会福祉法人グローの実践について触れてきた。次回からは、精神科看護師たちが病院の外に飛び出し、表現活動も交え、障がい当事者と一緒に地域づくりに奔走する大阪府堺市のNPO法人kokoimaのドタバタ超支援劇をたっぷりお届けしよう。
(第六回へ続く)
お知らせ
アサダワタルさんがディレクションを務めるイベント「想起の遠足 ー このまちの“記憶”からあのまちの“記憶”を手繰り寄せる日常ツアー ー」(東京都小金井市芸術文化振興計画推進事業)が、11/17(金)〜19(日)に開催されます。詳細は以下をご覧ください。
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