イラストレーション  : 楠木雪野

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なかなか会えないときだから考える コロナ時代の対話とケア● 高橋 綾

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「問い」を共有し、 ともに「探求する」こと の意味
「今回のひとこと〜緩和ケアの現場から」 田村恵子 ▶記事末尾へ

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対話において、お互いの考えや価値について質問し、その違いがどこから生まれてきたのかがわかってくると、お互いの考え方の違いの根本にあるものや考えがちがっていても共通している言葉や前提について「そもそも~〜って何だろう?」「なぜ~~は重要なのだろうか?」「~~は当たり前だと考えてよいのだろうか?」というような「問い」が生まれ、それについて「ともに考えること」ができるようになります。これが対話における「探求 inquiry」です。

 

対話と探求において、重要なのはそのスタート地点やテーマとしての「問い Question」です。複数人で何かについて話し合う場合、ディベートのようにAかBかどちらが正しいかを決めるために意見をたたかわせるような話し合いや、ある問題を解決する、合意を形成して単一のアウトプット(答え)を出すために議論する方法もあります。しかし対話における「問い」についての探求は、そのような正否や解決策をなるべく早く出すことが目的の話し合いとは性質が異なります。

 

「問problem

「問questionのちがい

 

まず、「問題解problem solving」などと言われるときの「問problem」と「問question」の違いを考えてみましょう。最近注目されているデザイン科学・デザイン思考という 分野では、「問題」にも複数の種類があると言われています。「問題」とは、実際に困っていることが生じ、何らかの対応や解決が必要なことですが、「問題」には、単純な事実レベルのものでそれがどんな「問題」でどうなれば解決なのかが明確なものから、いろいろな立場の人の価値や考え方が関係し、「問題」や解決自体が何を意味するのかわからない複雑なものまで、いろいろな種類があります。例えば、「新型コロナウィルスに効くワクチンを開発する」という「問題」は、それがどのような「問題」であるかや解決の方向性がわかっているので「単純な問SimpleProblem」※1と言えます。

 

しかし「新型コロナウィルスの感染対策と経済活動を両立させる」というような「問題」になってくると、アウトプットの方向性はある程度わかりますが、解決のためには感染症に関することだけでなく人々の心理、社会的反応や経済活動のことなどいろいろな要素がからまってくるので簡単には解けない「複雑な問ComplexProblem」になります※2 さらに「ポスト/ウィズコロナの新しい社会をつくる」というような「問題」になると、そもそも何が「問題」のなるのか自体もよくわからず、どうなったら解決と言えるのか自体も人によって変わってくる「厄介な問題 Wicked Problem」だと言えます。

 

※1:ここでいう「単純な問題」は、解決することが簡単であるという意味ではなく、「問題」となっていることが何であり、何をすれば解決になるのかが明確である、という意味。

※2:安斎勇樹、小田裕和著、『リサーチ・ドリブン・イノベーション 「問い」を起点にアイディアを探究する』、翔泳社、2021年参照。

 

そして、この「厄介な問題」、何が「問題」で、何が解決になるのかわからないような困りごとについては、それをなんとか解決しようと急ぐことより、それについてどのような「問い」(考えるべきことやどの観点から考えるか)を見つけることが重要だと言われています。「ポスト/ウィズコロナの新しい社会をつくりたい」なら、「ポスト/ウィズコロナの社会で変わること、変わるべきでないことは何か?」「そもそも社会とは誰のため、何のために存在するのか?」というような「問い」を考えることから取り組まなければならないでしょう。

 

つまり「問題」というのは「~はどうしたらいいのか」というそこにある困りごとであり、具体的な答えや解決案が求められるのにのに対し、「問い」は「問題」にどの角度から取り組むか、どこを考えていくかというアプローチの入り口であり、多くの場合目の前の「問題」解決からは一歩引き、「~をどう考えるべきか」というかたちで、その「問題」に対する人の「考え」を聞くものです。ですから「問い」に対しては、事実上の解決策ではなく、「問題」に関するいろいろな考えをまずは出してみることが必要になります。

 

問題解決より、「問い」を見出すことの重要性

 

医療現場では、問題解決が重要と考えられる場合が多く、患者が何か困りごとを訴えれば、急いで解決策を与えなければと焦ってしまうという方も多いかもしれません。しかし、医療や看護の目的が、身体の痛みや困った症状をなくす、減らすという問題であれば、医師・医療者が専門家として答えを与えられるかもしれませんが、身体症状を減らした結果、患者の生活の形が大きく変わる時に、患者や家族ががどう「生きていきたいか」「どう生きていくのがよいことか」ということについては、医療者が答えや解決策を持っているわけではありません。治療のあり方だけでなく、患者や周囲の人の価値観や考え方がからむこのような問題については、患者がどんな「問い」を持っているか、どんなことについて医療者と一緒に考えてほしいと思っているかに着目することが必要な場合もあると思われます。

 

ある糖尿病患者から、食事療法もインシュリン注射も医師の言われたとおりきちんとやるけれども「私、何を楽しみでこれを続けていくのか、何が楽しみで生きていくのかがわからんのや、それを教えてくれんか?」と言われ、何と答えたらよいのかわからなかったという医師に対して、臨床心理学者の河合隼雄さんは、そこで大事なのは医療者はその答えを「教えられないけど、あなたと一緒に歩むのです」ということを伝えるということなのだと述べています※3。これは、患者さんの「何が楽しみで治療をつづけ、生きていくのか?」という発言を「問い」として引き受け、それについて一緒に考えていきましょうという医療者の態度が、答えや解決を与えることよりも重要だという意味ではないかと思われます。

 

※3:石井均『病を引き受けられない人々のケアー「聴く力」「続ける力」「待つ力」』、医学書院、2015年。

 

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