イラストレーション  : 楠木雪野

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なかなか会えないときだから考える コロナ時代の対話とケア● 高橋 綾

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対話と共感 〜共感するって どういうこと?

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対話とは、ディベートのような論理や言葉だけのコミュニケーションではなく、身体・感情的な交流を伴う関係性であり、そのなかでは、相手の「考え」だけでなく、相手の置かれている状況やそのときに感じていることを理解すること、つまり「共感」ということが重要となります。

 

欧米では、分断や多様化が進む社会だからこそ「共感」を社会のベースとしてもう一度考え直そうという動きもあり、またその一方でSNSの「いいね」(ある種の「共感」)カルチャーが人々のコミュニケーションや関係に与える影響なども話題になっていて、共感するとはどういうことかについての関心が高まっているようです。また、共感的であることは看護師など対人援助職業には必要な能力とされていますが、日本の場合、共感的であるかどうかは、その人の性格や気持ちのありようの問題と考えられることが多いようです。

 

たとえば、欧米の小学校や中学校の授業では「共感」を学ぶための取り組みもありますが、日本ではこどもだけでなく看護や対人援助を学ぶ学生に対しても、共感する能力を訓練するようなことはあまり行われていないように見受けられます。

 

シンパシーとエンパシー

 

ここでは、共感についての最近の議論も参考にしつつ、「共感する」とはどういうことか、そのことと対話やケア的コミュニケーションとの関係を考えてみたいと思います。日本語ではどちらも「共感」と訳されますが、英語では実は二つの単語があります。シンパシー(sympathy)とエンパシー(empathy)です。実はもう一つ別の単語、コンパッション(compassion)があります。日本語では共苦と訳されることもありますが、コンパッションは概念的には通常の共感とはやや異なり、「ある人の苦しみは、その人だけのものではなく、人間として共に被る苦しみである」というある種スピリチュアルな気づきに基づくものではないかというのが筆者の理解です。ただし、この話は今はひとまず置きます。

 

シンパシーとエンパシーは、どちらも他人に関する感情の持ち方を表す単語ですが、シンパシーは日本語では時に「同情」と訳されることでもわかるように、基本的には相手と「同じ」気持ちである・気持ちになる、というニュアンスが強そうです。具体的には、誰かが泣いていたり傷ついていたりするのを見て、自分も「同じ」ような気持ちを感じ、なんとかしてあげたいと思うことや、SNSで自分と「同じ」関心や意見を持つ人に「いいね」を押すなどの行為がそれに当たります。

 

これに対して、エンパシーは自分とは「異なる」他人の感情や経験を理解する能力、いわば「他人の靴を履いてみる能力だとされます。遠くの国で戦争に苦しむ人々や、自分にはない病気・障害を持つ人が生きている状況や経験、気持ちを理解するなどの行為のことで、これはすぐに「同じ」気持ちになることが難しい場合もあるため、むしろ理解力や想像力などの知的能力が必要となります。ちなみに、人々の分断や多様化がすすむ欧米社会で着目されている共感は、シンパシーではなくエンパシーのほうであるのは言うまでもありません。欧米の学校では、エンパシーの能力は意識的に訓練や学ぶことによって向上すると考えられており、これを学ぶための授業も存在します。

 

※今回の内容は、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(ブレイディみかこ著/文藝春秋/2021年)で紹介されている、欧米での共感についての議論に多くを依っています。

 

わたしたちが他の人をケアしようと思うときには、相手と「同じ」感情を感じられるという意味のシンパシーも、「異なる」相手の気持ちを理解するという意味のエンパシーも、どちらも必要なのだと筆者は考えています。泣いている赤ちゃんや、けがや病気で道にうずくまってうめいている人を見た時に、なんとかしてあげたいと思って駆け寄るという行動は多くの人がするものであり、ケアや看護の原点と言えます。この時にわたしたちを動かしているのは、相手が泣いているとか、うずくまって声をだしているのを見た時に、即座にその相手の気持ちや感じているつらさや痛みがわかる、あるいは部分的に自分も「同じ」気持ちになってしまう、という能力です。

 

 

近年の脳科学の発見によると、人間やサルの脳には、「ミラーニューロン」という神経細胞があり、他の人やサルがしている行動(と同じ時に使う脳の神経細胞)を、自分の脳のなかで「鏡のように」再現することができる、ということがわかっています。この脳の機能は、わたしたちが他者の感情や行動をすばやく理解したり、他人を真似て社会生活を学習するということに役立つとされています。大人が笑って話しかけると赤ちゃんも笑う、というような現象や、けがや病気で痛そう、苦しそうにしている人を見すごせないという反応は、このミラーニューロンが引き起こすシンパシーが関係しているのだと思われます。

 

ただ、このシンパシーには限界があります。それは、自分と似ている他者の、シンプルな行動や感情にしか反応できないという点です。他のサルがしているように、落ちているものを拾うという行為をまねる、赤ちゃんが大人が笑っているのを見て笑う、という単純なことならよいのですが、悲しすぎてなぜか笑ってしまうことや、家族への愛憎半ばする気持ちのような複雑な感情や、戦争や差別による社会的苦悩のように、自分とは大きく状況や立場の異なる人の苦しみは、この脳の機能に由来する単純なシンパシーだけでは理解することができません。

 

また、シンパシー型の共感は、自分が気づいたりコントロールできないところで相手の気持ちに感染してしまうように起こるという側面があるため、対人支援に関わる人はこの側面に気をつけなければいけません。対人援助の臨床で指摘される援助者の「共感疲労 compassion fatigue」という現象は、患者やクライアントの重い苦しみや悲しみを聞いたときに、その人のつらさに共感しすぎて、援助者が精神的に疲れてしまうことを言います。この共感疲労は、英語ではcompassionという言葉が使われていますが、自分と相手の間に境界線を引けず、相手の感じている感情やつらさが援助職の側に自分のことのようにのしかかってくるという、シンパシー型の共感に関係する問題でもあるように思われます。

 

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