特集:ナイチンゲールの越境 ──[建築]

市民目線のナイチンゲール病棟

公立刈田綜合病院

text by

アーキテクツ・コラボレーティブ

芦原太郎・北山 恒

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──1階には外来、検査部門、バックヤードがある。外来は天井を2階部分まで高く取り、空間を広く活用。4つのボックスの中に各診療科が入っていて、移設が可能なつくりになっている。(撮影:坂元 永「ナーシング・トゥデイ」2003年2月号「建築の風景」より)

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2002年に開業した公立刈田綜合病院は、宮城県白石市、蔵王町、七ヶ宿町の一市二町にまたがる公立病院で、宮城県仙南地域の中核を担う308床の災害拠点病院です。設計者がいわゆる“病院設計のプロ”ではなかったことで、市民参加による一般人目線の快適な療養空間をとことん追求した結果、“自然採光、自然換気”などナイチンゲールの思想を形にしたユニークな病院が、現代日本の田園地帯に誕生することになりました。

編集部

 

 

「くらし日本一」を目指した

街づくり

 

白石市は宮城県の県南にある人口3万弱の落ち着いた小都市である。白石城を中心とした歴史を活用し、市民のアイディアとエネルギーで21世紀の「くらし日本一」の街をつくろうという理念のもと、1988年に「ホワイトプラン」が制定され、このプランに基づいた街づくりが進められていた。

 

当時の市長・川井貞一氏は、東北工科大学の川向正人教授(当時)に街づくりのアドバイザーを依頼した。その川向教授からの推薦で、芦原太郎、北山 恒、堀池秀人の3人の建築家が街づくりの委員となった。私たち3人はそのときそれぞれ独立したアトリエ事務所に所属していたが、公立刈田綜合病院の移転・改修を手がけるに当たり、「アーキテクツ・コラボレーティブ」というアトリエ事務所共同体の特別チームをつくり、活動することにした。

 

私たちはホワイトプランの理念の具体化のために「白石デザインフォーラム」を提案し、市民参加型のデザインワークショップ手法による公共建築づくりにかかわった。白石デザインフォーラムは、市民・行政・専門家の3者が街づくりに関して自由に意見交換ができる「対話の場」であり、街づくりに対する市民の意識を高める仕組みである。

 

プロジェクトの企画段階はプランニングボードで、具体的な設計段階はアーキテクチュアルボードでそれぞれ検討し、ワークショップボードでは適切な段階で、適切な市民参加を促すよう機能する。

 

 

手始めに行った白石第二小学校デザインワークショップでは、1,400名ほどの生徒、父兄、教職員が参加した。各人の様々な意見や希望を取り入れながら、フィードバックを繰り返すことで共通認識や合意形成を築き、私たち建築家が計画をまとめていった。

 

市民による市民のための

病院設計プロセス

 

ホワイトプランの理念と街づくりの運動を行う中で、公立刈田綜合病院の改築計画が持ち上がった。当時、白石市に存在する大型の建物は、市役所と市街地に位置していた公立刈田綜合病院くらいであった。しかしその病院は老朽化し、手狭にもなっていたため、郊外の拓けた敷地に移転することになったのである。

 

 

私たちは病院利用者の意見やニーズを探るため、1997年5月25日、市民や病院関係者参加によるワークショップを開催した。その後、構想段階、設計段階、建設中、完成後の運営に至るプロセスを公開しながら、専門家、市民、関係者の間でフィードバックを繰り返した。

 

ワークショップ参加者には、自身の社会的な立場を離れ、病院を利用する一個人、街づくりに向けた一市民の立場からアイディアや要望、提案を出していただき、合意形成へと進めていった。

 

 

市民や病院関係者参加によるワークショップ

 

病院利用者へのヒアリング

 

公立刈田綜合病院の大きな特徴は、市民参加によるワークショップ方式を重ね、利用者の立場を第一に考えた設計手法を採用したことにある。その結果、3階建の低層型で、「病院には十分な自然採光と自然換気が不可欠」としたナイチンゲールの思想を取り入れた病棟を最上階にもつ、前例のないユニークな病院建築が誕生した。この市民参加型ワークショップの手法は、市の他の公共施設づくりに共通するものとなっていった

 

市民参加型ワークショップの手法:白石デザインフォーラムによる市民参加型街づくりは、地域の火の見櫓、ポンプ小屋から始まり、体育館のリサイクルプラザへのリノベーションへと展開していった。公立刈田綜合病院の設計まで、私たちの関わったプロジェクトはすべて、市民参加型のワークショップ手法を採用した。

 

 

従来の病院建築形式からの脱却──タワー型から低層型建築へ

 

日本の病院建築は、一般的に、低層部に診療・検査部門を設け、病棟をタワー状に積み上げる形式が用いられることが多い。1階を外来とし、その上階に病棟を看護単位ごとに積み重ねる、いわゆる墓石型の標準設計に則ったものが大勢を占めていた。病院の管理や治療行為の能率・効率から、こうした病院計画のプロトタイプが生み出されたわけだ。

 

調べてみると、このタワー形式は、建築計画学的に理にかなっているということがわかった。各フロアーは看護単位で閉じているので、平面は合理的に計画することが可能である。垂直動線の束が幹線として設定されるので、低層部の診療・検査部門も合理的に配置を行える。

 

しかし私たちは、病院計画のプロトタイプにこだわることなく、患者を第一に考えた病院計画、さらには街づくりに位置づけられた病院計画を目指した。公立刈田綜合病院の場合、病床数は300ほどで、延床面積は約25,000m2と大規模なものになるため、病棟を積み上げると、白石城(16.7m)よりも高い高層建築になってしまう。私たちは白石城を中心とする穏やかな白石市の風景を守る街づくりをするため、高層の建物にならないように病院の検討を始めた。

 

病院移転の計画地は、蔵王連山を臨む拓かれた土地であった。そこには、白石市の住民にとって馴染み深い風景が存在している。来院者の多くは地元住民であり、なるべく彼らにとって馴染み深い風景を邪魔しないようにすること、また市内に高層の建物はないので、周辺の風景と調和することを考え合わせたところ、低層の建物にすることはしごく当たり前に思えた。

 

市は十分な広さの敷地を用意していたので、低層にしたとしても、要求されている面積配分は可能であった。さらに、低層建築にすれば基礎工事や設備、そして建設時の仮設費などを大きく下げることができるという利点もあった。

 

こうした新しい病院づくりの計画には、市民や患者たちも参加したワークショップが大いに力を発揮した。病院関係者や地域の人々の参加により、利用者の立場を第一に考えた、白石市ならではのオリジナルな病院づくりを実現させることができたのである。

 

日本では、大型の病院建築は設計難易度が高いとされており、限られた数の組織設計事務所に独占されているのが実情で、そこには参入障壁が存在している。もし病院建築に手馴れた設計事務所がこの病院を担当していれば、おそらく下部に診療部門と検査部門を設け、上部に看護単位ごとに病棟を積層したタワー建築になっていただろう。

 

 

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芦原太郎  あしはら・たろう

建築家、芦原太郎建築事務所代表取締役、所長。1950年生まれ。東京芸術大学建築科卒業、東京大学大学院建築学修士課程修了。1985年芦原太郎建築事務所設立。2010-2016年日本建築家協会会長を勤める。日本、アメリカ(Hon FAIA)、韓国、中国、タイ、モンゴルの建築家協会名誉会員。個人邸から公共建築づくりまで幅広いジャンルの設計を行い、新日本建築家協会新人賞、日本建築家協会賞、ほか受賞多数。

 

北山 恒  きたやま・こう

建築家、architecture WORKSHOP代表。1950年生まれ。横浜国立大学大学院修士課程修了。1978年ワークショップ設立(共同主宰)、1995年architecture WORKSHOP設立主宰。横浜国立大学大学院Y-GSA教授を経て、2016年法政大学建築学科教授。2010年、第12回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展コミッショナー。代表作に「洗足の連結住棟「HYPERMIX」など。日本建築学会賞、日本建築学会作品選奨、日本建築家協会賞など受賞多数。主な著書に「TOKYO METABOLIZING(TOTO出版)「in-between(ADP)「都市のエージェントはだれなのか(TOTO出版)「モダニズムの臨界(NTT出版)など。

 

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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