Ivan Aivazovsky "Sevastopol"(1852-1853)
『1855年8月のセヴァストーポリ』★7
★7:1855年に執筆され、56年初めに雑誌に発表される。トルストイはすでに1855年11月にセヴァストーポリを出発し、ペテルブルグに戻っていた。
1855年に入り、クリミア戦争最前線のセヴァストーポリの攻防は一段と激しさを増した。戦況は次第に英仏連合軍の優勢へと傾いていく。連合軍は鉄道を敷設して兵士や軍需品を輸送し、海に配備された軍艦も個々の兵器も当時の先進技術の成果を使用していた。一方、不十分な軍備に依存するロシア側の劣勢は次第に顕在化し、長引く戦いの中で、将校も下級兵士も士気は目に見えて下がっていった。
最後に発表された、3作中最も長い『8月のセヴァストーポリ』は1855年夏、ロシア軍の劣勢が濃厚になった時期の物語で、セヴァストーポリ陥落とフランス軍勝利の場面で幕を閉じる。ロシアの将校たちは戦闘の合間に相も変わらず賭博に熱中し、下級兵士たちは戦争への不満を隠そうとしなかった。★8
★8:クリミア戦時、ロシア政府は徴兵令に加えて農村で義勇兵を募ることにより、兵力の増強を図った。入隊を申し出た者は戦争終了後かつての領主のもとに戻る取り決めであったにもかかわらず、世間では「兵役に服す代わりに農奴身分を解かれる」という噂が広まり、義勇兵の期待を煽ることになった。
皇帝への忠誠、祖国への愛を口にしつつも、心の中で死の恐怖は否応もなく膨らんでいく。
『8月のセヴァストーポリ』はコゼリツォフ兄弟が戦場で短い半生を閉じる経緯を描いた作品で、第1作と比較すると、はるかに小説らしい小説となっている。将校コゼリツォフは怪我の治療もそこそこに前線に戻る途中、やはりセヴァストーポリに向かう弟に遭遇した。おりしもセヴァストーポリの攻防は一段と激しさを増し、彼が部隊を離れていた間に味方は決定的な打撃を受けていた。誇り高く毅然とした軍人である兄ミハイルと内気で繊細な弟ヴラジーミル。同じセヴァストーポリの戦闘の最中、2人はそれぞれの思いでそれぞれの死を迎える。
この作品には野戦病院の場面があって、病院は「包帯所」(ロシア語でперевязочный пункт)という言葉で呼ばれている。兄ミハイルは弟ヴォロージャ(ヴラジーミルの愛称)を伴い、負傷した友人のマルツォフを見舞うためにこの病院を訪れた。コゼリツォフ兄弟が足を踏み入れた最初の部屋にはベッドが並んでいて負傷兵が横たわっており、重苦しい臭いがたちこめていた。彼らはそこで2人の看護婦に出会う。1人は50歳ぐらいの女性で厳しい表情を湛え、若い看護兵に指示を出していた。もうひとりはまだ年の頃20歳ほど、色白のたいそう美しい娘で、年配の看護婦の傍らを遠慮がちに歩いていた。兄弟は若い方の看護婦に案内されて、「昨日、足を切りとられたマルツォフ」のもとへ向かった。看護婦は弟の様子を気遣いながら、兄ミハイルと言葉を交わす。
──ヴォロージャは兄と一緒に歩き出したものの、絶えず辺りを見回して、無意識に繰り返している。
「ああ、神さま!ああ、神さま!」
「きっと、あの方はまだこちらに来られたばかりなんでしょうね?」と、看護婦はああと言ったり、溜息をついたりしながら、後ろから廊下を歩いてくるヴォロージャを指して尋ねた。
「来たばかりでね。」
美しい看護婦はヴォロージャを見て、突然泣き出した。
「神さま、神さま! こんなことみな、いつになったら終わるんでしょう!」と彼女は言ったが、声には絶望が響いていた。
クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍が赤十字の起源となったことはよく知られているが、これは戦争が看護体制に緊急の変革を迫ることになった、ひとつの例であろう。戦争の極限状態がもたらすこうした事情は連合軍側だけでなく、ロシアにおいても同様で、ロシアにもクリミア戦争で負傷した兵士の救済に尽力した者がいた。ロシア皇帝パーヴェル1世の息子にして、アレクサンドル1世とニコライ1世の弟にあたるミハイル大公のもとに嫁いだエレーナ・パーヴロヴナはそのひとりである。
彼女はヴュルテンベルグ王国(ドイツ)出身のパリで教育を受けた女性で、ミハイル大公の妃としてロシアの皇室に迎えられた後も、その聡明さで周囲を魅了した。この大公妃は医療、教育を含む様々な慈善活動や芸術家の支援に熱心で、クリミア戦時には彼女が呼びかけ、その命を受けた医師と看護婦達が負傷兵救済のために立ち上がったのである。クリミア戦争の最中の1854年秋にペテルブルグで救済活動の拠点となる協会が準備され、★9その一方で急遽、戦地に看護婦達が派遣された。
★9:この協会は世界で最初の従軍看護婦協会であるとも言われている。協会設立も含め、大公妃の救済活動はロシア赤十字の基礎を築いた。
トルストイ『8月のセヴァストーポリ』の野戦病院の場面に彼女たちの仕事ぶりが描かれている。
なお、トルストイがセヴァストーポリに到着し、戦地で物語を執筆し始めた頃、ナイチンゲールもまた黒海を挟んでセヴァストーポリの対岸に位置するスクタリの病院で看護師として勤務を始めていた。★10
★10:スクタリの現在名はユスキュダル。トルコのイスタンブールに隣接する都市である。ナイチンゲールはしばらくスクタリで勤務した後、セヴァストーポリ近郊区のバラクラヴァに移動し、一時視察のために滞在していた。
ナイチンゲールが勤務していた病院とはさまざまな点で環境が違っていたであろうが、それでも『8月のセヴァストーポリ』の野戦病院は彼女の職場をも彷彿とさせる。
クリミア戦争はロシア軍、同盟軍双方に多くの犠牲者を生み出したあと、1856年3月にパリで講和条約が結ばれ、翌4月にようやく終結した。クリミア戦争に参加した時、トルストイはまだ若い軍人で、人並みに愛国心もあった。セヴァストーポリ物語群に登場する兵士たちの多くもまた、祖国のため、皇帝のために、そして時として家族や自身の生活を護るため、功名心や自尊心のために進んで戦いに身を投じている。しかし死に直面することはそうしたさまざまな事情を瞬時に飛び越えてしまうできごとであった。
トルストイのセヴァストーポリ物語は第1作から第3作へ向かって微細な変化を遂げている。半年以上の時の流れの中で、戦地の外面的な風景描写に始まった物語が、次第に戦争の時間と空間がもつ意味を突きつめる場へと変わっていったのである。とはいえ読者がそこに見出すのは答え、すなわち戦争の是非を決定づけるような確固たる価値観ではなく、むしろトルストイ青年の絶え間ない問いかけである。
作家トルストイの誕生
トルストイ(1828-1910)とナイチンゲール(1820-1910)は同時代を生きた人間であり、当時としては長寿を全うして、同じ1910年にこの世を去った。2人はともにクリミア戦争に立ち会い、いくつもの死を目撃して大きな悲しみを体験した。しかし2人の間には違いもあった。トルストイは求道者として生きることを選んだのであり、彼の情熱はなによりも、戦場の光景や従軍者の心理の観察を通して、自身を省察することに向けられた。他者の痛みや苦しみを共有し、それを和らげることに身を捧げたナイチンゲールと異なり、彼にとって、他者の生と死を見つめることは常に自らの存在の意味を問う行為であった。
そして本稿の最後に付け加えておきたいのは、なんといってもトルストイは作家であり、われわれは『セヴァストーポリ』を読むに際して彼の表現者としての個性や傾向に大きな影響を受けるという点である。作家としてのトルストイは明快な物言いを好み、自身の思想がストレートに読者に届くよう、若干誇張した断定的な表現を選ぶことも多かった。たとえば『アンナ・カレーニナ』の冒頭に付された有名な一文、「幸福な家庭はみな互いによく似ているが、不幸な家庭はどれもそれぞれの不幸を抱えている」はいかにも彼らしい箴言にも似た言い回しだが、そこにはこれから始まる物語に対する読者のイメージを一定の方向へ誘導する巧みな話術を見てとることができる。
読者の多くがこの一文で次の展開を適確に予想し、そして物語を読み進めるにしたがって、自身の予想が実現していくことに満足さえ覚えるだろう。もしかわりに、「不幸な家庭はみな互いによく似ているが、幸福な家庭はどれもそれぞれの幸福の貌を持っている」という一文が添えられていたらどうだろう。これもまた1つの真実を言い得てはいるが、『アンナ・カレーニナ』の冒頭に冠した場合、そのあとに続くエピソードとは齟齬をきたし、読者は居心地の悪い思いをすることになったに違いない。
このように、トルストイは大変巧妙な語り手であった。セヴァストーポリ3作の場合も同様である。『5月のセヴァストーポリ』の幕引きに掲げられた「万人が善き人で、万人が悪しき人である」という記述もそのひとつで、「幸福な家庭はみな互いによく似ているが……」という言い回し同様、作家の価値観を決定づけるものというよりは、戦争という主題をめぐって周到に企まれた作家の演出であった。このように、われわれは『セヴァストーポリ』において、若くして戦争に「生と死」を学び、また戦争を通して「表現者」になっていく、ひとりの作家の誕生のドラマに立ち会うことになるのである。
(おわり)
◉ 参考文献