考 え る こ と 、学 ぶ こ と 。
対 談 : 辰巳芳子 ✕ 川嶋みどり
「いのち」を尊厳する
──食べること、看護すること。
言葉よりも、食べること
川嶋 辰巳先生は、子どもさんたちに大豆をまいて育ててもらう運動をされてきましたね。
辰巳 大豆100粒運動>>★1を始めた理由は、大豆のことを知っている人間を育てておこうと思ったからです。その子たちが大きくなった頃に何かの理由で行き詰まった時代になっているのではないかという危惧がありました。例えば政情不安や自然災害による困難ですね。そのせいでもし人々の生活がにっちもさっちもいかない状況になったときに「それなら豆でもまこうか」という気になる人が、この世の中にいるのといないのとでは大違いだと思うのよ。土を見て「豆まきならできるよ」と思える人が仮に5万人いたら、この国の一つの希望の縁(よすが)になるわね。
川嶋 そうですね、きっと。
辰巳 悲惨な状況に遭遇したとき、何もできなくて呆然とした人がいてもしょうがない。何かできないとだめ。川嶋先生、何かについてただ「知っている」のと、何かが「できる」のとでは大きな違いがあるでしょう。
川嶋 そのとおりです。例えば大学で知識を教わってもただ「わかった」レベルで終わっただけではだめで、できるレベルにしないと看護は役立ちません。患者さんに良いケアをしないとね。先生の運動もそう。子どもたちが大豆をまいてその労働を味わうこと。まいた種から芽が出ることに驚いたり、水をやることでどんどん成長していくという体験しないとね。
辰巳 「知っている」ことは「でき」なければ、人が生きていくことの助けにはならないっていうことを、繰り返し言わなければならないと私は思っています。例えば梅のことについて知っている人は多いと思うのよ。梅干しの殺菌力とかね。だけど、じゃあ実際に夏にはその梅をお米の上においてご飯を炊こうという行動に達している人はどれだけいるでしょう。
たつみ・よしこ
1924年生まれ。聖心女子学院卒業。家庭料理、家事差配の名手として今も語り継がれる母、辰巳浜子の傍らにあって料理とその姿勢を我がものとし、独自にフランス、イタリア、スペイン料理も学び、広い視野と深い洞察に基づいて、新聞・雑誌・テレビなどで日本の食に提言しつづけている。近年は、安全で良質の食材を次の世代に用意せねばとの思いから「大豆100粒運動」会長、「良い食材を伝える会」会長、「確かな味を造る会」の最高顧問を務める。(オフィシャルサイトより)
川嶋 私は戦争中に外地にいて>>★2、幼いきょうだいが6人もいました。父の転勤先が変わる度に土地の水質が変わりますので、子どもたちがお腹をこわさないように毎日の食事には気を遣っていた母でしたが、梅干しだけは欠かしませんでした。そのせいもあって大きな病気もせず全員無事に引き揚げて来ました。今も私は毎年梅干しを漬け続けています。先生はお出汁を引くときも必ず梅干しをお入れになりますよね。本当に利用範囲が広い。お母さまの浜子さん>>★3のご本に、梅干しの種を飴代わりに口に含ませるというお話があって、それを読んでから私もハンドバッグに自分で漬けた梅干しを必ず忍ばせています。
辰巳 何か不測のことが起きたときに、こういうものを一つ持っているか持っていないかで、大変な違いになるかもしれませんね。生きていくことについて考えるのは、そういうところから始まるんですよ。やるかやらないかの違いは大きい。それから、お味噌汁だけどね、ちゃんと煮干しでお出汁を引ける人は世の中に何人いるかしらねえ。煮干しが私たちに与えてくれる目に見えないような力、カルシウムなどの小さな小魚の養分が、いつの間にか私たちの思わぬ力になっているのではないでしょうか。
川嶋 最近の若い人はとくに、面倒だからとなるべく手を使わないのですが、手をかけるということはすごく大事だし、先生がご本でも書かれているように、料理の中に真心を込めることは本当に大切だと思いますね。
辰巳 例えばね、病院が提供するお粥があるでしょう? そこに梅干しを一つ載せて食べたグループと、載せずに食べたグループを比較してみたら、どんな違いが出てくるのか調べてみたいわね。
川嶋 それは興味深いですね。そういえば、このご本(『辰巳芳子のひとこと集─お役にたつかしら』文藝春秋、2013年)にこんなことが書いてあります。「五分ではなく三分粥を炊き、その上に一番出汁を加減して葛で寄せ、それをかけて食べる。葛引き粥とは看護の心得の筆頭。また美味しさも出色。日本の美しい食べ物の一つである」と。そして「こうしたものを赤ちゃんの口に、お乳の次に選んであげる賢いお母さんがいますように」ってね。私はこの言葉が大好きなの。
辰巳 先生、よく気がついてくださっているのね(笑)。
かわしま・みどり
1931年生まれ。1951年日本赤十字女子専門学校卒業、1971年まで日本赤十字社中央病院、日赤女専、同短期大学に勤務、1984年健和会臨床看護学研究所創設、2003年日本赤十字看護大学教授、2011年日本赤十字看護大学名誉教授。2013年一般社団法人日本て・あーてTE-ARTE推進協会代表理事に。2007年第41回ナイチンゲール記章受章ほか。
川嶋 辰巳先生の言葉は一つひとつすごく重みがあります。私自身がいろんなところでお話しをするときに、いつも引用させていただく言葉があります。例えば、映画『天のしずく』では、「スープの湯気の向こうから」として「日々繰り返す営みの中に生命の手応えがある。食べた手応え感は自分の生命の信頼につながる。信じられるということから揺るぎない希望が生まれる。食べものをつくり食することは、人間のあり方を尊厳すること。〈いのち〉はより深く広く。その魂そのものをも含み、ヒトを人にすることを可能にするものに他ならない」と語られています。
もう一つは「いのちを賭けて亡くなる方に寄り添って、その人の細胞が終わるときにお供をするのです」という言葉もすごく好きです。例えば、赤ん坊が生まれるときにオギャーっていう声にエネルギーが要るっていうのは普通にわかるんですけども、先生は人が亡くなるとき一つひとつの細胞が閉じる際にもやはりエネルギーが必要だっておっしゃっているんですね。これは私が気づかなかったことでした。
それらは、看護師が生きることについて考えるときの根本を捉えていると思います。生きるということと食べるということがつながっているでしょう?
辰巳 人が亡くなるときの言葉の弱さ、無力さというものを私はつくづく感じますね。
川嶋 そう。そういう本当に人が弱ってしまったときに露わになる、食べることの大切さを実感すると、食べものや食べるという行為を粗末に扱うことが絶対にできなくなります。
亡くなった私の夫は舌がんを患い、口腔底再建術後は咽頭部に特殊なチューブを入れて流動食を流し込んでいました。訪問看護師もケアマネジャーも胃ろうを勧めますが、本人も家族も口から食べることにこだわり続けました。お料理一品一品を別々にミキサー食にして、それぞれ野菜スープで薄めて飲ませるんです。本人の病気のつらさはどうしても代わってあげられないけれど、手間と時間をかけてスープをつくるのは、私自身が救われるひとときでもありました。
先生が折に触れておっしゃるように、まさにお料理を丁寧につくることは丁寧に生きることであり、愛することというのは生きることなんですね。
先生と私の対談が収録された『食といのち』(文春文庫、2014年)などで語られていたお話も印象深いです。流動食しか召し上がれなくなった先生のお父さまのために、メロンのかけらをガーゼで巻いて口に含ませ、飲み込まないよう片方を手で持って、そのジュースを楽しんでいただく。あるいは同じようにステーキの一切れにガーゼを巻いてね。そうして肉汁を味わっていただいたんですよね。
辰巳 そう、果物が大丈夫だとわかって次にステーキをね。父はすごく喜びましたね。食べられる自分に自信がついたんでしょうね。喜んでステーキを噛んだのよ。やはり液体をただ身体に流し込むのと、ちゃんと噛んでその食物の栄養をもらうのとでは、ぜんぜん違うんですよ。本当に。だからそれを見たお医者さんも、ものすごく感心してくださいました。でも看護師さんは、なんか悔しがっていたわね(笑)。
川嶋 お株を奪われたのね(笑)。本当に、看護にはそういう発想が大事だと思うのです。患者さんの気持ちに寄り添って、どうやったら不味い流動食ではなく、その方の好みに合ったものを提供できるかを考えて差し上げることが。
このエピソードを私はいろんな看護師に話すんですよ。でも、みんな病院の不味い流動食のことしか念頭にないから、すごく驚きます。固形物であってもガーゼを使って工夫さえすれば、たとえ歯茎しかなくても噛めるんだって。
しかし残念だけど、そうしたことにピンとくるナースが大勢いるわけではありません。中には「そのガーゼはどうやって消毒するんですか?」と質問する人もいてね。なんだかとても看護師らしいでしょ(苦笑)?
辰巳 とっても簡単なことですよ。煮ればいいんだから。
川嶋 そうですよね(笑)。
「死にたくない」と言って兵営に入って行った
川嶋 7月に出演されたTV番組(7月14日、毎日放送「サワコの朝」)を拝見しましたが、そこで早くに戦争で亡くされたご主人のお話を少しされていました。「戦争に行きたくて行った人など一人もいない」「死にたくないと小声で言った夫の無念が今も心の中にある」という言葉が忘れられません。
辰巳 私と夫はお見合いだったんですが、お話がまとまった直後に召集がかかったのね。そこで父は彼に会いに行って「とにかく無事に帰ってきてから結婚すればいいでしょう」と言ったところ、彼は無言でうなずきながら涙を一粒こぼしたそうです。
それを聞いた私はすぐにこの人と結婚することを決めました。死ぬかもしれない人を泣かせたまま行かせるのは良くないんじゃないかって、そのとき思ったのね。それで急いで挙式をして1週間くらいして夫は兵隊に行きました。その後、本当の召集がかかる前に一度戻ってきたんだけど、そのとき私に言ったんですよ、「死にたくない」って。そう言いながら兵営に入って行った。その無念はしっかりと私の腹の底にしまってあるの。
私はこれまで食に関する運動を3つ立ち上げて、それらを今も続けていますが、根っこには夫のように若くして死んだ多くの若者の無念に対する餞(はなむけ)の意味があるの。
川嶋 230万人の戦死者のうち、7割が餓死だったという記録が残されています。そして56万人を超える未亡人が生み出された……。>>★4
辰巳 夫から出征するという連絡を受けて、兵営から出ていく兵隊の隊列を見に行きました。それが彼を見た最後だったのね。半袖の軍服を着て、足はゲートルに地下足袋。半袖ということは南方へ行くということ。そこには必ずジャングルが待っている。なのに地下足袋ですよ。その頃の日本にはもう兵隊に靴を履かせるほどの余力もなかったんですね。だからといって兵隊に地下足袋を履かせてジャングルを歩かせるなんて何事ですか? そんなことをしてまで人を集めて連れて行ったのよ。それこそが絶対に私たちが忘れてはならない、この国の実態なんだって思ったわね。今もしっかりと覚えています。忘れませんよ。
だから、次にどんな時代が来ても米と大豆が失われないように、という仕事をずっと続けているわけです。食べることはいのちの基盤なの。「良い食材を伝える会」「確かな味を造る会」「大豆100粒運動」を30年も続けさせる力というのは、戦争で死んだ若者の無念を思う気持ちの力です。
若者の無念について、この国はまったく取り上げません。美化するばかりでね。「死にたくない」、私はその言葉をしっかりと心にしまってあるの。
川嶋 しかし今はそうした戦争の悲惨さに対する気持ちが鈍麻になってきていて、昔の教訓を忘れ、国全体のムードがどんどんときな臭い方向へ引きずられているように思います。だから私たちのように本当の戦争を知っている者が、そこであった真実を伝えたいんだけど、若者たちにとってはどうしても昔語りになってしまう。
辰巳 戦争なんか、いいことなんて一つもないの。私は75歳になったときにフィリピンへ渡り、コレヒドール島を訪れました。そこはかつて、水も食べ物もない最大の激戦地だったところですが、あちこち見て回っているうちに気づいたの。いろんなところにテニスコートがあるんです。「あら? アメリカ人は戦争中にテニスをしていたのかしら」と、一瞬思ったんだけどそうじゃない。実はその下に水を貯めるプールがあったんです。それを隠すためにテニスコートで蓋をしていたのね。つまり、アメリカはそういうものをつくっておいてから戦争に臨んだんですよ。それに対して日本兵は、いくら喉が渇いてもジャングルの中で草の露を舐めるより仕方がなかった。
川嶋 ほんとうに、日本は無謀なことを……。
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< 編 集 部 注 >
★1 大豆100粒運動:子どもたちに大豆をまき育ててもらうことで、日本の大豆を復興させようと、2005年にNPO法人「大豆100粒運動を支える会」が設立された。辰巳氏が会長を務め、大豆を愛する有志がボランティアで運営している(◀)。
★2 戦時中の川嶋さん:銀行員の父が赴任していた韓国のソウルで生まれ、その転勤に伴い朝鮮半島や中国の学校を転々とし終戦を北京で迎えた(◀)。
★3 辰巳浜子さん:日本の料理研究家の草分け的存在。家に招いた客をもてなすためにつくっていた料理が評判となり、雑誌やテレビに登場するようになる。本人は料理研究家と呼ばれることを嫌い、自らを主婦であるとしていた(◀)。
★4 戦争被害の統計(川嶋注):辰巳先生は、戦争で失われた人々のいのちに関する数字を並べながら、この国の憲法についてのお考えを次のように述べられている(出典『この国の食を守りたい―その一端として』辰巳芳子著、筑摩書房、2009年)(◀)。
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食をめぐる危機3
「憲法第九条を守りたい」
日本国憲法
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を逹するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
<第二次世界大戦における統計>
日本 戦死者数……二三〇万人
民間犠牲者数……八〇万人
米国 戦死者数……二九万二千人
ソ連 戦死者数……一四五〇万人
民間犠牲者数……七〇〇万人
中国 戦死者数……一三二万四千人
民間犠牲者数……一〇〇〇万人
ドイツ 戦死者数……二八五万人
民間犠牲者数……二三〇万人
ポーランド 戦死者数……八五万人
民間犠牲者数……五七七万八千人
(日本は厚生労働省資料、日本以外は英国タイムズ社「第二次世界大戦歴史地図より)
うち、ホロコーストによるユダヤ人犠牲者数は六百万人といわれる。
戦没者未亡人……三七万一四〇六名
戦災者未亡人……一一万二一〇五名
外地引上未亡人……八万二八九四名
計……五六万六四〇五名
(厚生省児童局昭和二十二年五月の調査による。川口恵美子著『戦争未亡人』より)
この統計は、あらゆる説明を超える。
戦争で死ぬということが、なぜいけないか。
あるべきでない死、死んではいけない死を死ぬからである。
憲法九条は、この国の若者のいのちの対価である。
死にたくて死んだ人は一人もいない。
九条を守らなければならない。
このことを言わずして、何を危機と申せようか。
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