「犠牲なき献身

  どうあり得るのかを

  考え続けるしかない。

── 慈善と近代的職業の両立をめぐって

栗原康 × 田中ひかる × 田中ひかる × かげ

座談会

 「犠牲なき献身」とは

 どうあり得るのかを

 考え続けるしかない

 

栗原:クリミア戦争では、ナイチンゲール看護団一行は最初のうち兵士の看護をすることの許可が下りずに待機せざるを得なかったですよね。看護師たちが看護をしたいと言って感染症が蔓延している病院に考えなしに飛び込もうとしたとき、ナイチンゲールは感染症にかからないためにはどうすればいいのかを考えずに無闇に行ったら死ぬとわかっているから、止めるわけです。ナイチンゲールは「犠牲なき献身」と言っていますが、献身って犠牲を伴うものですよね。この言葉、矛盾していて意味がわからないのですけど、たぶんその矛盾をずっともっているというのが大事なんでしょうね。「犠牲なき」って言わないと、死んでしまうから。でも、だったらどうすればいいのかは答えがないんです。ナイチンゲールは、犠牲をつくらない献身とはどうあり得るのかを考え続けるしかないと思っていた人なのではないかと思いました。

 アナキストのデビット・グレーバー注15は、人間関係の基礎にあるのは「無償の行為」──彼はコミュニズムという言葉を使うのですが、損得とか関係なく、あげられるものはあげるし、もらえるものはもらっていいという関係性でやりくりしていこうと言っています。それが人間のベースであり、普通にそれはそうするものだと。でも、「無償の行為は良いことだからやりなさい」と強要するのは、支配になってしまいますが。

 もう一方で、人間関係の中には「交換の論理」というのがあります。今は対価でお金をもらうのが当たり前の資本主義だから、みんながそれに縛られているのですけど、本来の交換の論理というのは、やったことに応じた報酬をもらえば人間関係が切れるんです。それが実は身を守るすべだったりもする。「無償の行為」をし続けて、もうこのままでは死ぬぞとなったときに、1回限りで報酬をもらったらもう終わり、という考え方なんです。今は「交換の論理」で、「お金をもらえなかったら死ぬから、お前、働けよ」という支配になっているけれども、そうではなくて、例えばブラック企業でこのまま働き続けたらオレ死ぬな、となったときに、「交換の論理」を使うと、1回お金をもらったら人間関係を断ち切れるので強いですよね。「自分はこの期間にこれだけ働いたから、これだけのお金をもらって終わります」と言える力って、大事だったりすると思います。そういう意味で、大関さんの中に鈴木さんをどう入れ込むかですかね。

 

かげ:新型コロナウイルスが流行り出したとき、私が働いている病院でもコロナ病棟がつくられて、「誰が行く?」ってなりました。私はちょうど転職したてのときだったのですが、前の病院では救急救命センターにいたから人工呼吸器を扱えたので、上司から「コロナ病棟に行ってくれない?」と言われて、「3か月だったらいいですよ」と返事をしたんです。

今のお話を聞いていて、コロナ病棟に行くという話があったとき、当時はコロナの初期の頃で大勢の人が亡くなっている時期だったから、「自分も感染して死んじゃうかも」と思いつつも、「でも行かなきゃな」ってなったことを思い出しました。犠牲をつくらない精神っていうけど、「でも死ぬよな」というのは頭にあり……そこで「3か月だったらいい」というのは、今振り返ると「交換の論理」だったんだなと思います。

 実際コロナ病棟では、未知の感染症に対する医療の提供体制に十分な配慮がなされていませんでした。先にコロナ病棟に行った友人が、「これでは看護師が感染してしまう、犠牲になってしまう」と訴えてくれたのですが、病院と揉めてしまい、結局友人は辞めてしまいました。でもその友人のおかげで、その後、コロナ病棟の設備が整ったんです。経営側は、患者を受け入れなければならない、でも経営的な面を考えると感染対策にかけるコストはなるべく抑えたい、と考えるのかもしれません。けれどもそれでは職員の感染リスクが高くなってしまう、と友人は声を上げたのです、大関さんみたいに。私は不安はあっても言えなかったのですが、友人のように声を上げることは大切だと思いました。

 

田中:今の時代に現場の看護師さんが病院に対して声を上げるというのは、相当勇気がいることだと思います。

 

栗原:そう考えると、大関さんが議員に直接要望書を出したというのはすごかったということですよね。

 

田中:伊藤野枝と大関さんくらいですよね、女性で後藤新平に訴えた注16というのは。

 

ケアの民主主義〜みんながケアの担い手に

 

田中:大関さんの場合は、病院ではなく訪問看護という地域の場で、国に決めてもらうのではなく、自分たちで自立的に、自主的にやっていこうとしている。地域でいろいろな人に広めていって、ケアをつなげるというのはチャリティに近い考え方です。

 

栗原:アナキズム的でもありますよね。組織の上下関係ではなくて、地域でというところが。最後は家庭で担う、と言っていますし。

 

田中:岡野八代さんは『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』の中で、「ケアの民主主義」という言葉を使っています注17。看護や介護だけでなくてケア全般についてなのですが、今までは女性だけにケアを任せていたように見えるけれども、そうではなく、実はいろいろな人がケアを担っている。病院でも、例えば清掃している人たちも重要なケアの担い手なのだ、と。今はいろいろな人たちが社会でいろいろなことをしてくれているからケアというものが成り立っているのだけれども、そういう人たちにがんばらせるだけではだめで、皆にいかにケアを配分していくか、責任を分担していくかを考えるべきだということです。

 駅で清掃している人とかトイレ掃除をしている人とかは、すごく大変で重要な仕事をしているのに、一番賃金が低いのが現実です。それに、すごく高度な心臓バイパス手術ができる医師がいて、その人がそれ相応の賃金をもらうのはわかるけれども、でもチーム医療なのだから看護師さんや他の職種の人たちが周りにいて手伝わなければできないですよね。さらに、病院や手術室をちゃんとメンテナンスしてくれている管理の人とか清掃の人とか事務の人たちがいないと手術はできません。その医師のすごい技術というのは、その人の労働状況を守ってくれている人たちがいなければできないのです。特殊技術や専門的な知識を持った人だけがすごいのではなくて、その人をみんながお互いに支え合うからすごいのだと思うんです。そういう意味でのケアをやっている人って、普段は見えないんですよ。それをきちんと見える形にして、お互いに役割を持ち合っていかないと、もはや病院はもたなくなってしまうし、看護師さんももたなくなってしまうのではないでしょうか。みんなが病院で、みんなが看護なんだというふうにしていかなければいけないな、と思っています。ナイチンゲールは看護やケアを病院に特化するのではなく、いずれは家庭で、一人ひとりが自分たちでやっていくんだと言っていて、今の時代にすごくリアルにマッチしていますよね。

 

(2024年1月31日、日本看護協会出版会にて)

イラスト:かげ
『超人ナイチンゲール』の担当編集者、医学書院の白石さんにもご同席いただきました。弊社の編集2名も含め、なぜか全員黒い服でした(笑)。

注15デビット・グレーバー(1961-2020)は、アメリカの人類学者、アナキスト・アクティヴィスト。『負債論─貨幣と暴力の5000年』『ブルシット・ジョブ─クソどうでもいい仕事の理論』などの著作で知られる。

 

注16日清戦争を機に派出看護婦会が急増したが、中には看護のレベルが低かったり、組織としていい加減なところもあった。大関和は看護婦の質の担保のために一定の教育を課す制度や資格の整備が必要だと考え、内務省衛生局長だった後藤新平に直訴した。

注17ジョアン・C・トロント著、岡野八代著・翻訳『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』(白澤社、2020)

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