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[連載小説]ケアメンたろう 最終話 桜のカーディガン 文・西尾美登里/挿画・はぎのたえこ

「でもね、どんな職場も同じで大変なことはあるんよ。どこでだってそう。働くってそういうことなんよ」──(本文より)

登 場 人 物

東尾太郎:この物語の主人公。県立南城高校ラグビー部に所属している高校生。あまり自分の感情を表に出さない。

太郎の母:九西大学病院の元看護師で、現在は同大学で看護学教員として働く。脳の出血で救急搬送される。

朔先生:九西大病院の医師。母が看護師の頃、勤務を終えるのを待つ太郎をよく気にかけてくれていた。

慧人:太郎の幼なじみで母親がいない。父親は太郎の母と同じ九西大学に勤めている。

ツッツー:慧人と同じく太郎と幼なじみ。家は歯科医院で両親が共働き。うんちく好きのマニアックな趣味を持つ一人っ子。

澤田久美子:校門の前にある電気屋の看板娘。介護が必要な祖母と妹、父と母との5人暮らし。さっぱりとした性格。

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退 院

 

予定よりも3日早く退院することになった。学校の授業がない土曜日を選んでくれたらしく、太郎はラグビーの練習試合を休んで病院へ向かった。

 

今日は天気がいい。母親の病室から見える歩道の木々は、若緑色が芽吹き始めている。花粉が飛んでいるのだろうか、陽射しがすこしだけくすんでいるように見えた。母親の痺れはずいぶん軽くなり、少し眩暈はあるものの一とおりの家事ができるようになれるだろうとのことだ。

 

母親自身にも快復への意欲はあるけれど、視界がゆがんで見えるようで、平坦な廊下の曲がり角に差し掛かっるときに「あのスロープの上を曲がるのね……」などと言っているのが心配だ。しかし、以前に朔先生が「不自然な視界も、徐々に元に戻っていくだろうから」と言ってくれたし、きっと大丈夫だろう。

 

また、仕事の復帰はリハビリしだいで可能だろうとも言ってくれた。でも太郎には、以前母親の職場で、たまたま見かけた障がい者を睨みつけるような人がいたことが気になっていた。教員同士の世界にどのような人間関係があるのか知る由もないが、太郎にはその時の記憶と母が重なり、なんだか鉄砲を持った奴らが上から狙っているように思えてしまう。

 

『でも、障がいをもった同僚に脅威を感じる理由なんてないんだから、そういうことを心配する必要もないのかな……』

 

昨日の夜、ツッツーが「ばあちゃんから、お見舞いの品物を預かってきた」と連絡をくれ、家まで持ってきてくれた。母親に「もう退院するのに、お見舞いでいいのかよ…とも思ったけど」と、ツッツーが心配そうに話していたことも伝えた。

 

退院しても治療が必要なら、お祝いではなくお見舞いでも間違いではないと、母親は言っていた。「たぶん、お見舞いの箱に紅白の水引の熨斗がかかっているはずよ」。太郎にはそういう「しきたり」のことはほとんど何もわからない。

 

事前に数日間かけて少しずつ荷物を運んでいたおかげで、病院を出るときに使った緑色のスーツケースはずいぶんと軽い。このケースは去年、太郎が修学旅行に持って行ったもので、側面にはその楽しい思い出の戦利品かのごとく、飛行機の荷物を証明するシールが複数貼られている。軽いスーツケースだがまだ母親には持ち上げることが難しい。

 

太郎の本心を言えば、スーツケースを持ち上げるだけの腕力をつけてから退院させてほしかった。しかし、これ以上はどこかの施設に頼るのではなく自宅に戻ってリハビリをがんばってもらうしかないようだった。もう一段階上位の要介護認定を受ければ、病院と自宅の間をつなぐ施設に入ることができるはずだから、少し残念にも思えたが、それはつまり一段階分母が元気なのだから、そのことを喜ばなければならない。

 

太郎は少しだけ一人暮らしの生活に慣れてしまい、今までの気楽さが阻害されるのかと思うと、実のところ100%は喜べない。しかもこれからは少しの間、家事をヘルパーに依頼することになったので、朝早くから他人が家に来ることになる。介護保険制度を利用すれば、母親だけが使うスペースの掃除や料理・洗濯などの支援してくれるらしいが、太郎との二人暮らしではその対象にならないらしい。母親一人が使う炊事場や洗濯機なんてあるわけないし、そんな制度って、なんか変じゃないか……?

 

そこで太郎は、制度に頼らず私費でヘルパーを頼むことになった。月曜から金曜日まで、洗濯物や食事の用意、風呂や部屋や玄関の掃除をしてくれる人が、毎朝やってきて、弁当をつくり詰めてくれるという。

 

それはそれで有難いのだが、家族以外の人が朝からいるとなると、ゆっくりとトイレに座っておくわけにもいかないじゃないか、と太郎は思う。母親自身も「洗濯してたたんでもらうにしても、収納の際に箪笥などを他人に見られることが嫌だから、収めるのは自分でやる」と言う。

 

身体の不自由な母がいて、その世話をする他人が家にいることで、自分だけのときの生活ペースが乱されると思うと、太郎の気が沈む。

 

そんな気持ちを察したのか、母親が言った。

 

「今日は試合を休んだんやろ?」

 

「うん」

 

「ごめんね」

 

「いや」

 

……別に謝まってもらっても、どうにかなるもんでもないやろう。太郎は言葉を飲み込み、意地悪な自分に嫌悪する。

 

 

母のいる風景

 

タクシーを降り、杖をついてマンションの玄関扉の前まで歩くと、ハチとクーが鳴いている。スーツケースを杖代わりにして歩く母親の後ろには、母の背を見つめながら車椅子を押す太郎がいる。

 

玄関の扉を引くと、2匹が奪い合うように母親へ飛び込んだ。

 

「ひさしぶりね。ふたりともごめんね」

 

2匹がじゃれあってくるため、なかなか靴を脱げない母親が太郎に言う。

 

「今日は出前にしよう」

 

リビングに入った母親は、思ったよりも部屋が散らかっていない状況に驚いていた。

 

「彼女できたん?」

 

当然NOだと言うと、婆ちゃんの仏壇に手を合わせて母親は言った。

 

「太郎を守ってくれてありがとう」

 

線香の香りの中で母親と向かい合い、夕食のピザをつまむ。この食卓は広い。一人で食べていたときはサイズなんて感じなかった。母親が入院中はテレビだけを観ながら食事をしていた。

 

「太郎、高校3年生になって大変なうえに、お母さんのこともあってごめんね。でもね、お母さんは自分のことで、あんたの将来を邪魔したくないんよ」

 

唐突にそんなことを言い出した。

 

「うん」

 

太郎は、心を見透かされていると思った。母親の言うとおり、介護のせいで自分の将来が思いどおりにはならなくなるかもしれないと感じていたのだ。

 

「家の中のことは、まだお母さんは元通りにはできん。やからね、家事援助をこのまま当分の間は頼もうと思っとる」

 

「うん。でも私費のヘルパーは高いやろ。僕も大学いくしお金いるやん。保険金はいくら入った?」

 

「まだ確認しとらん。お母さんは今とりあえず要支援だけれど、これから快復するだろうから多分次の介護認定は通らない。いざとなればこのマンションを売って自分は一人で生活すればいいんやから、あんたは行きたい大学に進学しなさい。お父さんがもしも生きて帰ってきて、あんたが燻っとったら、私はどんな説教を受けるかわからん」

 

「職場には復帰すると?」

 

太郎が胸にとどめていた不安を質問すると、母親の表情が曇り「考えている」と答えた。

 

「職場でなんかよくないことに遭っていると?」

 

「そりゃあいろいろなことがあるのは、前からあんたもよくわかっとったやろ。でもね、どんな職場も同じで大変なことはあるんよ。どこでだってそう。働くってそういうことなんよ」

 

母親は今の状態で転職は難しいだろう。働けることすらラッキーなのだろう。しかし元の職場に戻るのは母親にとっていいことなのだろうか。いや、やはりそれが母親にも自分にも最善のような気がする。

 

 

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教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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