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特集:ナイチンゲールの越境 ──[戦争]
野間正二著 / 文理閣 / A5判 / 383頁
2023年5月刊行 / 定価(本体1,900円+税)
ISBN:978-4-89259-931-6
野間正二
はじめに
2022年2月24日、大国ロシアがウクライナへの侵略戦争を始めました。
この歳になって、本を出版することは資源の無駄使いだ。そういう考えが、脳裏の片隅をよぎります。しかし一方で、この侵略を目のあたりにすると、戦争被害が死者や負傷者だけに終わらないことも、世間の人びとにも、とくに若い人には、ぜひとも知ってほしいという願望がつよく生じてきました。戦争で心が傷ついて、その後の人生を大きく狂わせる元兵士や一般人が数多く生まれることも知ってほしい、という気持ちが生まれてきたのです。
「(戦争を)生きのびたが、それはハッピーエンドではない」という、残酷な事実があることを、多くの人に知ってもらいたいのです。このことは、すぐれた感受性をもつ作家を除けば、これまであまり注目されることがありませんでした。だが、それでもやはり、わたしたち一人ひとりが知っておくべき重要なことだと考えています。
そこで本書では、南北戦争からベトナム戦争までの戦争を描いた7人の作家による13の作品を精読することで、戦争PTSDの実相を各戦争別に具体的に検討しました。
その意味では、この本を完成させた原動力は、侵略戦争を始めたロシアと、戦争そのものとを憎み反対する気持ちでした。
なお本書は、2019年10月に当サイトで発表させていただいたエッセイ「PTSDとアメリカ文学」を、拡大し深化させた著作です。戦争によるPTSDの視点から、アメリカの文学作品を読みとくことで、戦争PTSDの多様な実相をあきらかにしています。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは
PTSDは、1980年に米国精神医学会によって、病名として正式に認められました。
ベトナム戦争(1964~75年)では、のべで約270万人の米軍兵士が投入され、約5万8千人が戦死し、約30万人が負傷しました。その戦死者や負傷者のほかにも、戦場で心が傷ついていて、帰還後に社会や日常生活とうまく適応できなくなった(元)兵士たちが多数生まれました。米国の社会もそうした心が傷ついた兵士たちの存在を無視できなくなりました。
たとえば、映画界もそんな社会の状況に敏感に反応しました。戦場で心が傷ついた兵士を描いた映画『タクシー・ドライバー』(1976年)や『ディア・ハンター』(1978年)や『帰郷』(1978年))などの名作が、つぎつぎに作られました。そしてヒットもしました。
社会のそんな状況にも助けられて、心の傷ついた(元)兵士たちに向きあって、彼らを助けようと奮闘していた医師や帰還兵士たちの努力と提言とによって、PTSDという病名が生まれたのです。1980年のことでした(その2年後の1982年には、ワシントンのナショナルモールの一角に、ベトナム戦争で戦死した兵士全員の名をきざんだ、黒い花崗岩の記念碑が完成しました)。
このように最初は、PTSDは、戦争で心が傷ついた兵士の症状をあらわす病名でした。しかし現在では、列車事故やレイプや災害などによって、心が傷ついた人の症状をもさす病名ともなりました。PTSDは適用の範囲が広がったのです。さまざまな原因で心がふかく傷ついた人の症状をあらわす病名となっています。
PTSDが正式な病名として認められる1980年以前には、心が傷ついて帰国後、社会や日常生活にうまく適応できない兵士は、多くの場合、その原因が不明なものに苦しむ、哀れな人とか迷惑な人と見なされがちだったのです。個人の責任において、対処すべきものとされがちだったのです。
それが、PTSDが正式な病名として公的に認められたことによって、公的な救いの手が差しのべられるようになったわけです。これは、戦争によって心が傷ついた兵士(=PTSDに苦しむ兵士)の環境に劇的な変化をもたらしました。
そのPTSDを考えるうえでは、米国精神医学会発行の『精神疾患の分類と診断の手引き』(Diagnostic Criteria from DSM)における診断基準が、がもっとも基本的な資料です。本書では、この『精神疾患の分類と診断の手引き』(第五版・2013年)の診断基準を参考にして、すべての議論を展開しています。そのPTSDの診断基準は以下のようなものです(*本書の13ページから17ページに記載しています。ただしここでは「例」や「注」を加えるなどの修正をしています)。
看護職の読者の皆さんには、こうした医学的定義に基づいたPTSDの症状というものを専門的視点からとらえていただいたうえで、本書に目を通していただけると、お仕事にお役立ていただけるのではないかと思います。
PTSDの診断基準
心的外傷後ストレス障害(PTSD)
A── 死や死の脅威、重大なケガ、性的な暴力に、以下のひとつ又はそれ以上の事項においてさらされている。
B──トラウマとなる出来事と結びついている以下のような侵入兆候が、ひとつ又はそれ以上存在している。それらはトラウマとなる出来事のあとで始まったものであること。
C── トラウマとなる出来事が起きてから生じた、その出来事と結びついた刺激を絶えず避けようとする。以下の事項のひとつか又は両方をふくむこと。
D──トラウマとなる出来事と結びついている認識や気分が負の方向に変化する。それは、その出来事が起こってから始まったり悪化したりしているが、以下の事項の二つかそれ以上をふくむこと。
E──トラウマとなる出来事と結びついて、覚醒と反応が著しく変質する。それは、その出来事が起こってから始まったり悪化したりしているが、以下の事項の二つかそれ以上をふくむこと。
F──その障害は、基準のB、C、D、Eにおいて1カ月以上続く。
G──その障害は、臨床的に著しい苦痛をひき起こすか、又は社会的、職業的なあるいは他の重要な領域の働きを損なう。
H──その障害は、薬品やアルコールのような物質や、他の病気の症状の生理学上の結果に帰することはできない。