言葉を与える〜概念化の能力について
井部 週刊医学界新聞(医学書院)の連載「看護のアジェンダ」に「人が患者になるとき、患者が人になるとき」という文章を書きました。▶ 看護のアジェンダ 第131回(週刊医学界新聞, 第3151号, 2015年11月23日)私たちは患者のセルフケアと言いながら、患者自身の能力を奪い取り、意思決定や自分でできることも遮り、すべて看護師が引き取ってやってしまうという状況がここに描かれています。セルフケアや自律あるいは尊厳という概念がいったいどういうことなのか、現象と概念化の往復がまだまだ不十分で、それを現場で落とし込めていない看護師の弱みを露呈したかったのです。
村上 患者さんは、医療の勉強をすることによって患者として自立していくということですか?
井部 知識を持つことでエンパワーされる。つまり、患者から人に戻るんです。この看護師は患者に知識を与えない、もしくは十分に与えるだけのものを持っていなかった。質問されて答えるのは医師や薬剤師で、私はそこにも忸怩たる思いがあります。看護師が行うケアの中に人間の権利を剥奪している要素が含まれているんだなと、しみじみ考えさせられました。自分たちはそれに気づかず、そのことで忙しさを倍増させているのです。
村上 やはり「言葉を与える」ということが、先生の大きなテーマになっているのですか?
井部 私たちは概念化の能力を身につけ、強化することを模索しているのですが、まだその方法論を見つけていません。村上さんが言う「言葉を与える」、つまり「それはこういうことですね」と言葉を置き換えて説明することができると、もっと楽になるかもしれません。
村上 自分が直面している状況に応答する。あるいは状況をしっかりと理解する。そのための言葉を残すことが重要なのですね。たとえば専門看護師の方たちはその訓練をものすごく積まれますよね。一般の看護教育の中にもうそういった言葉にするプロセスは組み込まれてはいるのでしょうか?
井部 専門看護師のそうした能力は、大学院で文献を読み、ディスカッションして書くことで磨かれます。私はそのような修士レベルでなければ、看護の現象を概念化して語ることはできないのではないかと、最近思います。しかし150万人の看護職全員がそうした機会を持つことはできない。
村上 でも一方で、たとえば先ほどの「看取りが楽しい」とおっしゃった方などはごく普通の看護師さんですよね。ベテランで20年間続けられるような方たちは、語り自体はぐちゃぐちゃだったり、繰り返しが多かったりもするのですが、その中に「種」はすでに埋まっている。ある意味でそれは、すでに皆さんできているのでは?
井部 私の取り越し苦労なんでしょうか。
村上 今回、教養についてお話をすることになり、僕にとって看護って何だろうって考えてみました。それは自分が少年だった頃に読んでいた文学と同じだと思ったんです。思春期にたくさんの小説を乱読しながら僕が考えようとしていたことと同じような経験を、看護師さんもされているんですよ。考えるための材料が看護師さんの言葉の中にいっぱい詰まっている。だから、すでに持っている力を発見する必要があるのかもしれません。
井部 パトリシア・ベナーは、埋もれている知識を発掘することは研究者がやるべき重要な役割である。しかし看護学はそれを怠ってきたと言っています。実際にはいろいろな人が掘り起こす作業に手をつけていますが、まだ全体をきちんと体系化するところまでには至っていない。
ケアの背景となる知識体系を「隙間」で育む
井部 朝日新聞の連載「福岡伸一の動的平衡」で、福岡さんがわかりやすい文章を書く上で心がけているのは、「とはもの」を使わないことだと書いています。例えば「DNAとは」と語り始めた時に、その人はDNAについて熟知した者として上から目線の啓蒙的口調になってしまう。だから「“とは”という言葉の前にある述語や概念に、人間が到達したプロセスこそが、時間軸に沿って丁寧に語られなければならない」と。▶ 福岡伸一の動的平衡 10(朝日新聞, 2016年2月4日)しかし看護師の思考は、プロセスを丁寧に語るがゆえに、それにとらわれて述語や概念に行き着かないかと考えました。
村上 おそらくプロセスを丁寧に語るのはよいことなのではないでしょうか。難しいのは語っていった結果、自分の実践をぴったり表現できる言葉を見つけ出すことなのかもしれません。新しい言葉を見つけるために、幅広い分野の教養が活きると思います。これは看護の問題だけではありませんね。いろんな場所で、自分の専門しか勉強しなくなっているという問題があります。専門外のことにアンテナを張る余裕を社会が失っている。そんな中で、言葉が豊かで幅広いジャンルを吸収されている方もおられるのですが、それを皆に勧めるというのも話が違いそうです。
井部 そうですね。その人たちは現場との間に断絶があると思います。例えば私が今すぐ病棟に立って看護師をやれと言われても、きっとできないでしょう。細かい技術や患者の病態生理、治療法も常に変化しているから。でもそれは一定の期間勉強すれば大丈夫かもしれない。それよりも「隙間」で長く生活していると、そうでない場所で規定された仕事を「いちに、いちに」とやることの不自由さを思い出し、チームの一員として行うことの負担をすぐにイメージしてしまうのです。
村上 先生はいろんな書物にコメントを出されていますが、患者さんと向き合うミクロな次元から、医師や家族あるいは制度、法律などマクロなところをすべて視野に入れてコメントされています。『専門看護師の思考と実践』(医学書院)もそうでした。患者さんの症状というピンポイントから、逆にすごく引いたところまで、看護師がどんな介入を実践したかを記されています。
井部 一人ひとりの専門看護師が述べた内容をどう総括するかという視点で書きます。そういう指摘で触発されるんですが、格好よく言えばこの作業は私の1つの知的な到達点ですね。
印象的な事例の一つに、患者の主治医を変えたCNSがいました。それは専門看護師が決断した最良の方策だったわけです。患者は社会的に活躍している40代の方で、病名の認知や治療法の選択、身体変化への対処など自律して行える人でした。病状の進行に伴いそれらが困難となって家族の支援が必要になりましたが、父母と弟は突きつけられた現実に大きな戸惑いを感じてしまいます。
そんな状況にある家族システムの安定を脅かしたのが、信頼できない主治医の存在だったのです。専門看護師はさまざまな状況から判断して医師の交代が必要と決めました。結果として家族に安定がもたらされ、家族が主治医に向けていた負のエネルギーを患者のケアに変換することができました。
私は次のように書いています。「専門看護師が主治医への配慮を示しながら主治医の交代を迫る場面は圧巻である」と。つまり、病院の中で主治医を変えるなんて誰もできないと思っていますが、この専門看護師は、それを極めて普通にやったわけです。
村上 これからは、どの看護師もそのようになっていくべきなのですか?
井部 本当に看護師がアドボケイターだと言うのなら、患者にとって最善のことを普通にできなければならないでしょう。まず、病棟師長がこのような力を持つといいと思います。