イラストレーション  : 楠木雪野

[連載] なかなか会えないときだから考える コロナ時代の対話とケア ● 高橋 綾

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対話と共感〜共感するってどういうこと?
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今回のひとこと〜緩和ケアの現場から 柏谷優子 辻仲病院柏の葉 看護部 SPACE-Nワーキンググループ

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エンパシーの練習

 

ですから、複雑な人間の感情や、自分とは大きく異なる状況に置かれた人の気持ちについては、言葉(頭)で推理し、理解するということが必要になってきます。共感、というと感情だけを働かせることのように思ってしまいがちですが、この連載で何度か紹介している、C. ロジャーズの援助的コミュニケーションの三条件の一つは、「共感的理解 empathetic understanding」なので、簡単には同じ気持ちにはなれない、自分とは異なる人の気持ちを言葉で想像、推論して「理解(understanding)」するという知的作業の要素が含まれていますし、欧米では、認知的共感 cognitive empathyという言葉も使われているそうです。

 

ちなみに、ロジャーズの共感的理解については、「あたかもその人のように、しかし『あたかも』の感覚を決して失わずに、感情的な構成要素と意味を持って、他者の内的照合枠を正確に経験すること」といった本人による定義が知られています。この「『あたかも』の感覚を決して失わない」というのは、シンパシー型の共感のように、自分と相手の境界線を意識しないことや、相手と自分とが「同じ」であるという前提に基づくものではなく、自分と相手が異なる人間であると意識していることの重要性を指しています。「他者の内的照合枠を正確に経験する」というのは、ただ相手が今感じている気持ちを理解するだけでなく、その人から見ると、何がどう見えて、どう感じられているのか、というその人のさまざまなものの見方や感じ方の枠組みそのもの、その人の世界観を理解し、自分のことのように経験できる、という意味だと思われます。

 

では、自分とは異なる他人の気持ちを想像し、理解するという意味でのエンパシーは、どのように訓練や学ぶことができるのでしょうか。一つの例としては、カナダで始まった「ルーツ・オブ・エンパシー」という教育実践があります。この教育実践では、小学校のクラスに、生後2〜4カ月の赤ちゃんとその親が定期的に訪問します。教室の真ん中にブランケットを敷き赤ちゃんに座ってもらい、小学生たちは母子を囲んで座ります。インストラクターはこどもたちに、赤ちゃんの様子をよく観察し、赤ちゃんがどんな気持ちでいるかを想像したり、話し合ったりするように促します。小学生のこどもたちは、言葉を話せない赤ちゃんの置かれている状態や、気持ちについてみんなで話し合ったり、時には自分が同じ気持ちを感じたことを振り返ったりしながら、自分とは異なる他者の気持ちを想像し、他人や自分の気持ちを言葉で言い表すことを学んでいくそうです。

 

赤ちゃんの場合は、感情のバリエーションも置かれた状況も複雑ではないので、エンパシーの練習の初歩としてはちょうどよさそうですが、より複雑な状況や感情を理解するにはどうしたらよいでしょうか。実は筆者は、前回紹介した「質問のワーク」は、やや複雑な、自分とは異なる人の気持ちや考え、ものの見方を質問によって理解する、共感的理解の練習にもなると思っています(ただし、心理学や心理の臨床では、どちらかというと「感情」にフォーカスして相手のものの見方や感じ方、相手の内的な感情世界を理解することが重視されているため、筆者の質問のワークは、相手の「考え」や価値、判断や前提にフォーカスした哲学・対話型の共感的理解の訓練と言えるかもしれません)。

 

この「質問のワーク」では、初めに相手の「イラッとしたこと」や「いつもするように心がけていること」の例を聞き、相手がなぜそのことにイラッとしたのか、なぜあることをするよう心がけているのか、その根底にあるその人の「考え」や価値を、質問によって推理していきます。最初に誰かのイラッとしたことや心がけていることを聞いたときには、すぐに「わかる!」と思え、シンパシーが生まれるものもあるのですが、なぜそんなことにイラッとしたのだろう? こだわっているのだろう? と思うようなものもあります。参加者の反応を見ていると、「わかる」と思えるものに対して肯定的に関わることは難しくないのですが、わからないものに対しては、「なぜ??」「変わった人だな……」と違和感や否定的な気持ちを感じることも多いようです。

 

やはり、感情は自分と似ている相手に対してはポジティブに働きますが、違いに関してはそうは働かないのかもしれません。ですので、筆者は、このワークのコツは、自分とは違う言動をする人に対して、最初に違和感やネガティブな気持ちを感じた場合は、いったんそれを脇に置いておき、質問をして積極的に関わってみることだと説明をしています。筆者の実感では、最初は違和感を覚えた相手の言動も、相手がなぜそれをしているのか、そのことがその人の根本的な価値観や物の見方とどのように関わっているのかを言葉で理解し、相手と共有できれば、不思議と最初のネガティブな感情は消え、相手に対するポジティブな気持ちが戻ってくる気がします。

 

たとえば、前回の看護師Aさんの例でも、高価な地鶏の生卵を毎日奥さんに買って持って来てもらって食べることを日課にしている、という患者さんの行動には違和感があったとしても、その背景にある「薬や医者に頼らず、なるべく自分の力で自分の健康を管理することが重要である」という価値や考えについては、十分理解しうるものであり、自分自身も同じ気持ちになることはあるかもしれないと思えるものです。「違う」と思う相手の言動の根本に、自分と「同じ」「似ている」部分があると思えれば、相手と同じ気持ちを感じ、寄り添うことが可能になります。ということはつまり、エンパシー型の共感の場合は、感情が先に動くというよりも、言葉や頭での理解ができると、その後で、「わかる」「なんとかしてあげたい」など、相手へのポジティブな感情がついてくるという感じなのかもしれません。

 

また、この「質問のワーク」の特徴は、自分だけで理解や想像を進めるのではなく、相手に質問をし、相手との相互作用や共同作業のなかで、相手に対する共感的理解をするという点にあります。このワークにおける共感的理解の力とは、相手のことをわかりたいという関心をベースにしつつ、相手に対して質問をし、その答えを元に相手の言動の根本にある「考え」や物の見方を考え、推理する力だと言えます。この質問力や推理力自体は、ある程度スキル的な部分もあるので、この練習を積み重ねていくことによって学習や発展させることができます。したがって、ここで言う共感的理解の力とは、学び、発展させることのできる、対話することに含まれる能力やスキルであると言えます。

 

つまり、対話においては、自分とは異なる他者への共感的理解、エンパシーが必要ですが、それは、自分とは異なる状況におかれた相手の気持ちに関心を持ち、分かろうとする、それによりそうという感情の働きと、言葉で相手に質問し、相手の考えを推理や理解するという知的作業を両方一緒にすすめていくことを意味しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

ことばとしての「共感」は臨床のなかでも頻繁に耳にするものですが、SPACE-N受講者へのミニレクチャーで、高橋さんが共感について語った「共感的理解」ということを聴いて、なるほど!と腑に落ちたのです。

 

看護師は、対象をありのままに理解すること、対象を評価したりせずに無条件の肯定的配慮をするといったことが習い性のようになっています。それが、その人らしさを尊重することであり、緩和ケアの領域では重要な態度・姿勢であるとされているので、患者さんとの会話でも「そうなのですね」と、会話を引き取って終わるといったことに疑問をもてないでいるということが、少なくないように思います。ところが、対話を用いた研修を重ねてみると、訊いて(確認の問いをして)みないとわからないなあ…という、相手が語ったことばの理解が自分のそれと違うという体験がたくさんありました。そういうわけで、患者さんの言葉も「そうですね」で終わらせたら、本当の意味で相手や相手が体験し感じていることを理解しなければ、共感を寄せることにはならないのだと腑に落ちたというわけです。

 

今回の内容を読みながら、「そういえばこんな患者さんとの会話があったなあ」と思い出しました。ずいぶん前、対話のことなんか何にも知らない頃の病棟での場面です。まだがんの痛みに使える医療用麻薬がモルヒネしかなくて、痛みが強い患者さんにレスキューが効果を示すまで、せめてもとベッドサイドで患者さんの背中をさすっていた私に、患者さんがポツリと「ひとの手ってすごいね…」と言ったのです。私にはそれが、苦痛に看護師が寄り添っていることと、背中をさすっていることを心地よく思っている、と伝えてくれていることばだと理解できました。だから私は、「そうですよね」と返しました。今なら、「そうですよね」って、いったい何が凄いんだ!と一人突っ込みをしているところですが、その頃はただの相槌としての返答で、患者さんがどういう意味で言ったのかなんて考えてもいません。背中を向けている患者さんのお顔は私には見えません。それからずーっと患者さんは無言でした。

 

私は、患者さんを慰めなくてはいけないような気持ちになっていて、そのために何か患者さんと会話をしなければならないといった気持ちもあって、しばらく沈黙が続いたあとで、「さっきのこと、何がひとの手、すごいんですか?」と問いかけました。患者さんのことばの真意が知りたいなどとは思ってもおらず、ただ会話の糸口としての問いかけでした。私の問いに患者さんは、「あのね、手っておしゃべりなの」と返してくれました。「やさしい手、忙しい手…」と続きました。患者さんは、いろんな看護師の思考が手を通じてわかるのだというのです。ショックでした。それだけに未だに覚えているのです。私は、申し訳ない気持ちになって「すみません」と言いました。わかったふうに、マッサージを喜んで、気持ちいいんだなぁと思い込んだこと、なによりも私の浅い思考(心から患者さんに向き合っていないこと)を指摘されたように感じてショックだったのです。でもその患者さんは「○○さんが、優しい気持ちで手を当てていることわかったよ」と慰めてくれましたが、以後、ケアは身体もこころもちゃんとそこ(患者さんと共に)にあることを心掛けるようになりました。そして、使うことばの意味は人によって違うということが実感としてわかったのです。

 

表面的なことばの理解で、患者さんの体験世界を決めつけてしまっていることありませんか? 今回の高橋さんの教えには「エンパシーは学習が可能だ」とありました。対人援助の場である臨床経験を丁寧に重ねていくこと自体が学習でもあると思いますので、誠実に日々の臨床に臨みたいと思います。ちゃんと、真の意味でケアとなるような共感的理解ができるようでありたいですね。

 

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>> この連載について/予定

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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