イラストレーション  : 楠木雪野

[連載] なかなか会えないときだから考える コロナ時代の対話とケア ● 高橋 綾
なぜあの人は、私に心を開いてくれないの? ──セーフな対話の場をつくる

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こどもとの対話から学ぶ、対話における「安心・セーフティ」

 

対話というのは、何をどのように話すかよりも、まずは、お互いに〈聴きあう〉関係づくりから始まります。自分のことを心を開いて話すためには、まずはその場自体が安心して居られる場であることが重要であり、何を話しても聴いてもらえる、聴きあえる関係だと感じられることが必要です。

 

一緒に対話型の研修をしている緩和ケアナースのみなさんからも、時々「『なんでも話してくださいね』と声かけしているのに、なかなか心を開いてもらえなくて……」「大きな病気や死に直面した苦しみを経験している患者さんだからこそそれを話してほしいと思うのに、自分の苦しみってなかなか話しにくいものなんでしょうか……」と尋ねられることもあります。

 

とくに、現在の状況では、以前のようにじっくり患者・家族の話を聴くことが難しくなり、限られた時間で信頼関係を築くのに苦労をしている方も多いかもしれません。早く良い関係を築く魔法の言葉のようなものがあるかどうかはわかりませんが、対話が生まれる場や関係とはそもそもどのようなものなのか考えてみると、何かヒントがあるかもしれません。

 

筆者は対話の場や関係づくりの根本に「安心・セーフティ」がある、ということをこどもとする哲学対話の実践を通じて学びました。こどもとする哲学対話は、「 こどもの哲学philosophy for children」とも呼ばれ、世界各国で行われている対話と探求の教育実践です。この活動は学校や図書館、美術館など、こどもが集まる場所で行われており、大人とこども、こども同士が対等に対話することによって、「友達って何?」「どうして学校に行かないといけないの?」というような、大人もうまく答えられないようなこどもたちの問いについて一緒に考えていくという活動です。

 

医療現場と同様、教育現場も、教師・大人が生徒・こどもに一方向的に知識を教える、というパターナリスティックな関係のもとに長い間教育が行われてきました。現在では、一方向的に、先生から正解を教えるのではなく、対話のなかで、生徒たちが自分で考えたいことを探求するという生徒・こども中心の学びのありかたへと変わりつつあります。そこでは、やはり、先生・大人と生徒・こども、こども同士の間の対等な対話が欠かせないと言われています。

 

患者さんにとっての病院もそうですが、これまで、学校というのは、その場所の主役であるはずのこどもにとって、少し緊張する場所であり、あまり安心していられる場所ではありませんでした。一方向型の教育では、こどもたちは、先生の言うことをきちんと聞き、正しい知識を習得することを求められており、それをもとに評価をされるため、先生や大人の目を気にして緊張しています。クラスの友達との関係のなかで、笑われたりばかにされることを恐れ、自分の言いたいことを言えないこどももいます。

 

ハワイ大学でこのこどもとする哲学対話を長く続けてきたトマス・ジャクソンさんは、こどもと対話をするときには、三つの「安心・セーフティ」に気をつけて場を作るように、と言っています。筆者は、こどもたちだけでなく、様々な場所で対話の実践を行なって居ますが、こどもだけでなく、大人にとっても、対話のなかでの「安心」という要素はとても重要だと感じています。

 

三つの「安心・セーフティ」

 

ジャクソンさんが大事にしている三つの「安心・セーフティ」とは、物理的、身体的に脅かされていないという「Physically Safe」、感情的に脅かされていないという「Emotionally Safe」、あともう一つは、知的に脅かされていないこと、すなわち「Intellectually safe」です。

 

① Physically Safe:物理的、身体的に脅かされていないこと

前回見たように、対話というのは、身体的な交流でもあるため、緊張や話しにくさを少なくするために、物理的な場のセッティングに注目することは大きな意味があります。

 

あとにも述べるように、筆者が行う対話では、参加者が円になって座り、自分の前には机など相手と自分を遮るものを何も置かないことを原則にしています。円になる、というのは、一方向型の授業のように、教える側と教えられる側とに分けられていない、全員が対等な関係の一員であることを象徴していますし、身体の前に机などをなるべく置かないのは、メモを取るなど目の前の対話から気がそれることをしないという意味もありますが、顔だけではなく、360度自分の身体を人に見せている=自分を他人に知ってもらうための武装解除という意味もあると思っています。

 

また、対話とは、人と人とが向かい合うことだと思われるかもしれませんが、物理的な位置関係については、真正面で向き合うことは緊張することもあるので、厳密な意味での対面ではなく、円のように目を合わせようと思えば合わせられるけれども、斜めで横顔が見えるくらいで、共に円の中心を眺めるという形のほうがリラックスして話せる、ということもありそうです。オンラインでのコミュニケーションでは、全員の顔の正面が見えており、これがよいという人もいますが、筆者などは、正面からの他人に見せる用の顔だけでなく、横からの表情や体の姿勢などが見えたほうが、その人をよく知ることができるのにな、と思ってしまいます。

 

さらに、他人と真剣に向き合う対話は、心身ともに集中が必要なため、身体に不調があるときには長時間対話するのは難しいです。そのために、身体のコンディションが良好であるかどうか、身体が緊張や恐れのためにこわばっていたり、痛みがあり、疲れている状態ではないかどうかを話す前にチェックしてもらうことも必要です。

 

② Emotionally Safe:感情的に脅かされていないこと

他人と話すときには、大人でもこどもでも、「こんなこと話して大丈夫かな、馬鹿にされたり、場違いだったりしないだろうか」という不安を多かれ少なかれ持っています。

 

そのため、相手に感じていること、思っていることを率直に話してもらうためには、どんな話をしても、すぐには否定的なことや批判が返ってこない、馬鹿にされたり無視されたりせず、まずは自分の言うことを聴いてもらえる、という気持ちの面での安心感があること(Emotionally Safe)が必要です。これは、心理学者のカール・ロジャースが、傾聴やカウンセリングなど、対人援助やエンパワメントのためのコミュニケーションの三条件として述べた、「条件なしで、肯定的な関心を向けてもらえること unconditional positive regard」にも重なります。

 

このようにEmotionally Safeについて説明すると、大学生くらいの年代の学生のなかには「人を傷つけないように、自分の発言には気をつけないといけないと思って、何を言ったらいいのかわからなくなった」という人が時々います。けれども、価値観や生き方が異なる人たちとの対話では、微妙に心が波立ち、相手に対するもやもやを感じたり、悪意ない発言でも、誰かがそれを不快に感じたりすることを完全に避けることは逆に難しいのではないでしょうか。

 

ですので、Emotionally Safeとは、対話のなかで、もやもや、傷つきがあったときにも、まず、自分がそれを感じていると気づき、そうしたネガティブな感情は感じてはいけないものではなく、自然なもの、あってもかまわないと思うことができること、そしてもしできるならば、相手や場を信頼してそれを伝えられることも含まれるのではないかと筆者は考えています。

 

 

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>> この連載について/予定

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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